コラム

    • 卒業論文

    • 2011年02月08日2011:02:08:00:05:00
      • 片桐由喜
        • 小樽商科大学商学部 教授

 私の勤務校はゼミと卒業論文がセットになって必修である。1月末日締切りのため、年明け早々、未完成の卒論を読んでは、添削・返却する日々が続く。ところで、最近の学生は卒業に必要な単位をほぼ3年生までに取得し、4年目は就職活動が学生生活の中心となる。社会問題化している早い就職活動、内定決定のためである。その結果、4年の秋以降、大学へ行くのは週1回、必修のゼミだけという学生が多い。そのような状況下で、少しでも勉強させる手段として卒論必修は有効である。 

 
 当ゼミは社会保障法を看板に掲げるが、卒論のテーマは、少しでも社会保障にひっかかるのであれば、どんなものでも良しとしている。簡単に書けそうなテーマを選ぶ学生もいるけれども、大半は、どこかで自分と接点を持つことを書こうとする。また学生達には、この卒論を読むのは教師である私とゼミ仲間しかいないから、言いたいことを思う存分、書きなさいというので、書きあがった論文は面白い。実際、彼らの論文から私自身が学ぶことも多い。 
 
 

1 自分 

 
 まず、自分自身の過去の経験をもとにテーマを決める学生がいる。 
 
 高校時代に骨折をして車椅子でしばらく通学した経験をもとに、バリアフリー・ユニバーサルデザインについて書いた学生がいた。車椅子に乗って苦労したこと、こうあってほしいと思ったことについて書いている。自身の経験から、一般的なスロープは、運動部所属男子高校生にとっても車椅子に乗って上るには、かなり大変なこと、車椅子用トイレの絶対数が少ないことに加えて、その少ないトイレを健常者が利用することもあり、車椅子利用者にとってトイレ問題が深刻であること、コンビニ、ファーストフードなど高校生が行く店舗などの通路が狭く、車椅子での利用が困難であったことなどが綴られている。 
 
 私は、この卒論で恥ずかしながら初めて知ったことは、エレベーター内の鏡の意味である。この鏡はヘアスタイルや服装を見るためのものではなく、「車いすのお客様が乗り込んだ状態で、かごの中で回転ができない際、後ろ向きで出るときに後方を確認するため」(社団法人 日本エレベータ協会)なのである。いわば、バックミラーの役目を果たしている。 
 
 車椅子生活を送りながら迷惑がられた辛い気持ちと、見知らぬ人から受けた親切を書いて、バリアフリー社会の実現にはハード(施設、装備)と、障害者を受け入れる人の心、つまりソフト、双方の改善向上が必要であるとまとめた。ありきたりの「まとめ」となるところ、自分の経験をもとにたどり着いた結論ゆえに、そのような印象を与えず説得力のある卒論となっている。 
 
 

2 家族 

 
 家族に障害者や病人がいて、彼らを取り巻く問題に敏感な学生も私のゼミには少なくない。経済的余裕があり、家族みんなが健康なら、若い大学生が社会保障制度に強い関心をいだくことは、むしろ珍しい。 
 
 知的障害者(児)を兄弟姉妹に持つ学生が障害者雇用をテーマに卒論を書いたことがある。障害者雇用制度が周知、整備されてきたこと、障害者自立支援法が就労に力点をおいていることのほかに、学生自身が就職活動を通して働くことの意味、働かなければならないこれからの長い時間を考えるのだろう。 
兄弟たちがどの程度の障害、つまり軽度か重度かで学生の障害者雇用に対する問題関心が異なる。たとえば軽度障害の場合、簡単な仕事なら健常者と比べて遜色なくできるのに障害者であることを理由に、極めて低い賃金しかもらえないこと、他方で、一見、健常者と変わらないために、障害のために仕事が十分にできないことが理解されず、解雇されることがしばしばあることなどを問題視する。 
 
 これに対し、重度障害の場合には、雇用される可能性がない中での就労訓練自体がいかなる意味を持つのか、1ヶ月働いて数千円程度の対価が賃金といえるのかなどが、卒論の中で考えられている。 
 
 学生達は、右往左往しながら自分なりに書く。私は卒論そのものよりも、彼らの心情、すなわち両親の面倒を見るのも、障害を持つ兄弟の世話をするのも自分しかいないと漠然と考えながらも、それを、まだ、はっきりと実感も覚悟もできない彼らの気持ちを思わざるをえない。ところで、障害者(児)が兄弟姉妹にいることを学生は他のゼミ生の前で早々に宣言してきた。これにより、他のゼミ生達が障害者のことを話すとき、言葉を慎重に選んでいることに気がつく。ゼミ活動の良き副作用であると思う瞬間である。 
 
 

3 故郷 

 
 本学は小樽にあり、ゼミの4年生8人中、2人がここを故郷とする。かつて北の商都として栄えた小樽も、今は全国の多くの地方都市と同じく元気がない。毎年の人口減が止まらず、少子高齢社会も既に完成している街である。このような状況を目の当たりにして、このうちの1人が地域社会の崩壊をくいとめ、どこに住んでいても教育、医療、福祉サービスを享受し、街が街として機能するための一つのアイディアであるコンパクトシティ構想をテーマに選んだ。 
 
 人々がまとまって暮すことで、得られるメリットをあげて、広大な北海道が生き残る道をコンパクトシティに見出そうとする。学生は検証のために財政再建団体となった夕張に行ってきたという。そこでの見聞は、彼の予定してた筋書きとは異なり、卒論の構成を再考しなければならないことになった。つまり、極めて厳しい環境の中に暮していても、郷土に愛着を持ち、ここでの暮らしもまんざら悪くないとの回答が思った以上に多かったからである。そして、都市機能が充実していれば人は幸せであるという常識を、いったん疑い、自分なりに幸せに暮せる街、地域とは何かを考え出さなければならないことになった。 
 
 ここに、卒論を書く意味があると考えている。つまり、世間で言われることを疑い、自分で考える作業を卒論を通して経験することである。これができれば、テーマは何でもよいのである。どんな立派なテーマでも、ネット情報のコピーアンドペーストだったり、マスコミ情報や巷にあふれる評論家の言説をなぞるものであれば、書く意味はまったくない。 
 
 

まとめにかえて 

 
 前述の通り、学生の書いた卒論から私も得るところが多い。特に、強い問題関心を持って書かれた卒論からは、私も返答を求められるような気持ちになる。それに応えることができるよう、教師も勉強していかなければならない。 
 
 ところで、こうして書いた卒論を本学はハードカバー製本して図書館書庫に保存する。聞くところによると建学当時‐ちなみに今年、本学は創立100周年を迎える-の分からあるという。このおかげで、卒論を後輩や子ども達が見ることもあるので、恥ずかしくないものを書きなさいと叱咤激励できる。ちゃんとした卒論を書かせる脅し文句である。 
 
 なお、私のゼミでは、全員の卒論をまとめて製本し卒業式の日に一人一人に渡すことにしている。この卒論集の前半は卒論、後半は学生達のエッセイや自己紹介、写真などである。10年、20年経ったときに読み返し、若き日を思い出して欲しいと思っている。
 
 
--- 片桐由喜(小樽商科大学 商学部 教授)

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