コラム

    • 幸福感をコントロールする?

    • 2013年10月08日2013:10:08:08:00:00
      • 森宏一郎
        • 滋賀大学 経済学系 教授

停滞する経済は社会的な問題と見られている。だからこそ、アベノミクスは希望の光であり、その成否について喧々諤々の議論が行われている。
 
そうした状況がある一方で、経済成長には限界があるという議論もある。メドウズ,メドウズランダース(2005)『成長の限界 人類の選択』(ダイヤモンド社)はその代表的な例である。そこで、経済成長に限界が見えているならば、新しい道筋を示す必要があるのではないかという議論がおこなわれてきている。
 
経済成長を見るとき、指標としてGDPが使われてきた。しかし、環境面から経済成長に限界が出ているなら、もはやGDPを指標として我々の経済状況を管理しても無駄である。GDPに代わる指標を開発して、その指標をバロメーターとして我々の経済社会をコントロールしていく必要があるのではないかというわけだ。
 
この文脈で、GDPに代わる指標として、「幸福度指標」というものが登場してきている。筆者は、幸福度指標の議論にいくつかの違和感を持っている。本稿では、その違和感について、簡潔に議論したい。
 
 

■日本人の幸福感

 
日本は先進国であり1人当たりGDPは決して低くないにもかかわらず、日本人の幸福感が低いのは問題であるという議論がある。まず、発表されているデータを見てみよう。
 
幸福度指標は現在進行形の熱い研究トピックであるため、確立したものがあるわけではなく、いくつかの指標がある。ここでは、インターネットで容易に入手できて国際比較が簡単にできる2つの指標を見よう。
 
1つは地球幸福度指標(Happy Planet Index)である(注1)。この指標は3つのデータから計算されている。アンケート調査で直接聞いた主観的な幸福感、平均寿命、エコロジカル・フットプリントの3つである(注2)
 
この指標では、日本はデータのある世界151か国中45位となっている。構成要素の主観的な幸福感だけで見ても、日本は47位となっていて、決して上位というわけではない。
 
図1は、地球幸福度指標とその構成要素、および、1人当たりGDPについて、日本と東・東南アジアのトップ3を比較したものである。データを見ると、日本の1人当たりGDPはこの中で突出しているが、言われているほど、主観的な幸福感は低くないことが分かる。
 
日本の地球幸福度指標が低いのは、エコロジカル・フットプリントが大きいことに起因しているようである。つまり、日本については、先進国特有の過大な消費生活が自然環境に大きな負荷をかけているということが問題というわけだ。
 
≪図1≫ 地球幸福度指標:日本と東・東南アジアトップ3の比較
 
もう1つの幸福度指標は、OECDの「より良い暮らし指標(Better Life Index)」である(注3)。この指標は11分野のそれぞれで評価され、総合評価は与えられていない。11分野とは、住居、所得、仕事、コミュニティ、教育、環境、市民参加、健康、生活満足度、安全、仕事と私生活のバランスである。
 
図2は、OECD「より良い暮らし指標」の11分野の指数について、日本とOECD平均値を比較したレーダーチャートである。すぐに気が付くのは、OECD平均に比べて、日本の所得は上回っているが、生活満足度は下回っていることだ。他にも、仕事と私生活のバランスや健康に関して、日本は問題を抱えているようである。
 
≪図2≫ OECD「より良い暮らし指標」:日本とOECD平均との比較
(データ)OECD Better Life Index
 
 

■イースターリン・パラドックス

 
幸福度指標が登場する背景には、環境制約から経済成長が限界に近づいてきているという議論の他にもある。工業化を通じて発展してきた先進国において、GDPではかる経済的な豊かさが国民の幸福感につながらないという「イースターリン・パラドックス」である。
 
経済が成長しても、国民が幸せを感じないのなら、GDPを見て一生懸命に経済成長を目指しても無駄な努力なのではないかというわけである。
 
近年、年収が900万円ぐらいを超えると、幸福感は上昇しないなどのまことしやかな説が有名となってきた。そのため、このパラドックスを直接的に知らなくても、このパラドックスを受け入れやすいのではないだろうか。
 
しかし、このパラドックスは、我々の直観に反していないだろうか。素直に考えると、傾向として経済的な豊かさが国民の幸福感につながらないならば、国が1人当たり所得の低い状態から先進国へ向けて経済発展していくという自然な道筋は消滅してしまう。だが、この道筋は歴然と存在している。
 
実は、このパラドックスについては、明快に否定する論文が存在する。Stevenson and Wolfers (2008)によると、主観的な幸福感と1人当たりGDPの間には明確な正の相関関係があり、その関係に飽和点はないという(注4)
 
つまり、1人当たりGDPが上昇するほど、主観的な幸福感は上昇する傾向があり、1人当たりGDPが十分に高くなっても、主観的な幸福感が上昇しなくなるということはないということだ。
 
さらに、主観的な幸福感を決めるのに、所得の相対的な比較はそれほど重要な役割を果たさず、所得の絶対的な大きさが重要な役割を果たしていることも確認されている(Stevenson and Wolfers, 2008)。
 
もちろん、主観的な幸福感を決める要因は多種多様に存在するだろう。しかし、国の規模でコントロールするための指標として、文字通り「主観的な」幸福感を考えるのではなく、経済指標としてのGDPを見ていくというのは依然として重要度が高いということになるだろう。
 
 

■国のレベルで主観的な幸福感をコントロールしてよいか

 
個人の主観的な幸福感は所得の大きさだけでは決まらない。このことは理解できる。しかし、国という人々の集合体のレベルで、総体としての主観的な幸福感をコントロールすることには、違和感がある。
 
幸福度指標を検討している人たちも認めていることではあるが、主観的な幸福感は個々人の日常的な状況変化でうつろいやすい。それは、主観的な幸福感に影響を与え得る要因を特定化できたとしても、どの要因がどれぐらい影響を与えるかは、個人ごとに異なり、さらに、そのときどきで変化してしまうことを意味している。
 
そうなると、国民全体の総体としての主観的幸福感を引き上げるために、どの要因にどのように働きかければよいかはほとんど分からないということになってしまうだろう。もし、国がそのようなアプローチを取って社会政策や経済政策を実行するようになると、ある特定の要因についてプラスの主観的な幸福感を得る人たちを優遇することになってしまう。
 
たしかに、GDPについても、効率性の最大化を優先し分配の公正化を後回しにすることが多く、特定の層の人々を優遇する傾向はあり得る。しかし、ある特定の要因に全く反応しない層については、他の要因に作用するしか、彼らの主観的な幸福感を引き上げる方法はない。
 
 

■価値観のコントロール?

 
現状を何も変化させなくても、人々の価値観を変更すると、主観的な幸福感を引き上げることが可能になるかもしれない。たとえば、徹底的に経済的な価値を否定し、とにかく環境やエコを重視するのが当たり前の考え方であり、そうしなければ社会的に後ろ指を指されるような価値観形成の政策的キャンペーンをやってみたら、どうなるだろうか。
 
経済が停滞していても、特に主観的な幸福感が下がることはなくなり、少しでもエコに通じるような政策を打てば、経済が上向きにならなくても、人々の幸福感を引き上げることができるかもしれない。
 
仮に、この手の価値観のコントロールを通じて、主観的な幸福感を引き上げることができるとしても、国のレベルで価値観のコントロールをするという発想は危険ではないだろうか。多様性があるから、分業を通じた経済社会が成立しているのであり、価値観を画一化することは非人間的ですらある。この発想は、多様な幸福を否定するようなことにもつながってしまうのではないか。
 
さすがに、このような発想が明示的に実行されることはないだろう。しかし、主観的な幸福感を引き上げることを究極の目標に設定すると、このような価値観の調整を通じた幸福感の引き上げも可能な選択肢として出てくるように思える。
 
 

■問題の本質は人々の近視眼

 
地球環境や人類の持続可能性にとって重要なものでも、人々が具体的に認識しなければ、人々の主観的な幸福感にはつながらない。それなら、人々の主観的な幸福感を究極のゴールとして最適化を行うのは、本末転倒ではないか。
 
むしろ、問題の本質は人々の近視眼にあるというべきである。将来世代の幸福を十分に考慮できなかったり、自分たちの消費生活がどのように、どれぐらい、地球環境に悪影響を与えているかが十分に理解できていなかったりすることが問題の源泉になっているのではないか。
 
主観的な幸福感につながらない活動を人間がしているから、さまざまな持続可能ではない状況が生まれているわけではないだろう。そうであれば、わざわざ人々の主観的な幸福感に結びつけて考える必要があるのかという疑問がある。
 
もっと言ってしまえば、そもそも、自分たちの幸福感がどれぐらいで、一体、何が変われば幸福感が上昇するのかを正確に理解できていないのではないかとも思える。
 
 

■幸福度指標は先進国のエゴにならないか?

 
もう1つ気になっているのは、発展途上国に対する先進国のエゴである。
 
地球規模で、環境制約にぶつかり始め、経済成長の限界が見え始めてきたとき、先進国はすでに十分に経済発展したので、さらなる経済発展をあきらめやすい。しかし、発展途上国はそうはいかない。発展途上国の立場では、環境制約の問題よりも目の前の貧困の問題に立ち向かうことが必要かもしれない。
 
このとき、先進国の視点から、地球規模での深刻な環境制約にぶつからないように、発展途上国の経済発展を否定するような発想の新指標が出てくるのは回避したい。1人当たりGDPを引き上げなくても、主観的な幸福感は他の要因から引き上げることが可能だから、経済発展を目指さなくてもよいと言うための指標づくりは避けるべきだ。
 
現在成長している、あるいは、これから成長してくる発展途上国に対して、たくみに経済成長をあきらめさせるための指標づくりになってはならないと強く思う。
 
 

■おわりに

 
GDPに代わる指標、GDPを補完する指標をつくろうという姿勢には賛成している。しかし、主観的な幸福感を引き上げるための「幸福度指標」をつくるという考え方には疑問がある。
 
人類社会の持続可能性を守るために使える指標をつくるという方向がよいのではないだろうか。「幸福度指標」の中には、このような方向性を持つものがあるようだが、「幸福度」という言葉のために、誤解を招く可能性はある。
 
その言葉のせいで、明示的ではなくても暗黙的に、主観的にコロコロ変化し得る幸福感へ指標づくりをどうしてもつなげてしまうのではないか。もう一度、我々の社会をより良い方向へ導くための道を考えるために、どのような方向性で新しい指標づくりをするのか、さらなる議論が必要である。
 
 
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注2:消費・廃棄といった環境に負荷をかける人間活動を維持するためには、消費を支えるために食物などを生産したり、エコ・システムの中で汚染物や廃棄物を自然に返したりする生物学的に生産的な土地が必要となる。エコロジカル・フットプリントは、現状の人間活動を維持するために必要な生物学的に生産的な土地の面積を測ったものである。
 
 
 
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森 宏一郎(滋賀大学国際センター 准教授)

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