コラム

    • 「東京一極集中」が招く人口減少の悪循環

    • 2014年06月10日2014:06:10:12:32:00
      • 河合雅司
        • ジャーナリスト

人口政策をめぐる議論が賑やかになってきた。内閣府が「毎年20万人の移民受け入れ」についての試算を公表したのに続き、政府の経済財政諮問会議の専門調査会は「50年後に1億人を維持」とする数値目標の設定を提言した。政府は目標値の設定については「骨太の方針」に反映させる考えで、首相を本部長とする政府の人口減少対策の戦略本部を設置する構想も検討している。
 
人口が本格的に減り始め、政府としても「何らかの手を打たなければならない」となったのであろう。
 
それにしても、これまで政府の人口減少への対応は鈍かった。
 
多くの国民が少子化社会の到来を強く認識したのは、1989年の合計特殊出生率が「丙午」の1966年よりも低い1.57を記録したことが判明した時だ。いわゆる「1・57ショック」である。
 
あれから四半世紀の時が流れた。しかし、この間、政府が取り組んできたことといえば、児童手当の増額や待機児童の解消といった子育て支援ばかりで、お世辞にも成果が上がったとは言えない。
 
対策を講ずべき相手を間違っていたからである。子育て支援策と少子化対策とは重なる部分は大きいが、その目的は異なる。子育て支援策とは、その名の通り、生まれてきた子供をしっかり育て上げていくためのサポートである。一方、少子化対策とは子供が生まれにくくなった現状をどう打破するかという政策である。
 
子育て支援策の充実が重要なのは言うまでもないが、子育て支援策は妊娠もしくは子供が生まれた後の政策であって、結婚したいのにできないでいる人や、結婚して子供を望んでいるのに授からないといった結婚前、妊娠前の人たちには手が届かない。
 
今、日本に突きつけられている課題は、結婚や出産に関する国民の希望と現実のギャップをどう穴埋めするかだ。若者の雇用の安定をはじめ、結婚前段階からサポートを行わなければ、出生数減の歯止めはかからない。
 
政府が結婚や出産へのサポートを避け続けてきた背景には、戦時中の「産めよ殖やせよ」政策に対する国民のアレルギーがある。結婚や出産に、政府が関与することへの国民の警戒心の強さだ。これに、国会議員や官僚は及び腰になってきたのである。
 
先日、厚労省が発表した2013年の人口動態統計によれば、合計特殊出生率は1.43と前年に比べ0.2ポイント上昇した。ここ数年、出生率は改善傾向にあり、こうした数字をとらえて「少子化の流れが多少は持ち直してきた」と評する声もある。
 
しかし、出生数は102万9,800人と過去最低を更新した。出生率が上昇したのに、出生数が減るという“ねじれ現象”が起こるのは、「分母」である出産可能な年齢の女性が急速に減っていくからだ。
 
子供を産むことができる女性数が減る以上、出生数も増えようがない。政府が「50年後に1億人」という数値目標を掲げたとしても、その実現は極めて難しいということだ。
 
こうした話になると、「人口減少を劇的に解決するには移民を受け入れればよう」という意見が必ず登場する。しかし、実現に向けたハードルは高い。
 
本稿の冒頭で触れた内閣府の「毎年20万人」で考えてみよう。受け入れを決断すれば、1億1千万人の人口規模を維持できるという。しかし、「毎年20万人」というのは50年間で1,000万人であり、10人に1人が移民という社会である。これはかなりの割合だ。世界各国の移民排斥の動きを見る限り、相当な社会的混乱が予想される。
 
移民の大量受け入れの難しさはこれにとどまらない。移民受け入れ議論から抜け落ちることが多いが、移民たちも日本で出産するということを考えておかなくてはならない。「多産文化の国」から来た移民たちのほうが、日本人よりも多くの子供を産む可能性が大きいとすると、移民と日本で誕生したその2世の合計人数が、日本人人口を上回る社会が遠からず到来するということになる。
 
日本人のほうがマイノリティーになるということは、「日本」が現在とは全く異なる「別の国」になることを意味する。移民大量受け入れについて、そう簡単に国民合意の形成が図られるとは思えない。
 
そもそも、移民の大量受け入れが政策として成り立つのかも怪しい。今後は多くの国で少子高齢化を迎える。どこから「毎年20万人」もの人がコンスタントに日本に来るというのであろうか。
 
やはり、われわれに残された現実的な選択肢としては、少子化対策に全力を挙げ、人口減少のペースを緩やかにするほかにないようである。人口減少に伴う社会の激変に備えるための時間稼ぎである。
 
しかし、その少子化対策も、単純な話ではない。興味深いシミュレーション結果が民間有識者でつくる「日本創成会議」の分科会から公表された。2040年までに、全国の自治体の半数が将来的な「消滅」の危機にさらされるというのだ。
 
これまでは平均寿命の延びが少子化を覆い隠してきたが、いよいよ高齢者数が減り始める。高齢者の消費をあてにしていた地域の経済が成り立たなくなり、若者が仕事を求めて都会に流出し地域の人口減少スピードが加速する悪循環に陥る。
 
とりわけ次世代を出産する20~39歳の女性が現在の半数以下になる自治体は、残った女性の合計特殊出生率が改善しても人口が減り続け、「消滅」する運命が待ち受けているという指摘である。
 
「消滅」すると名指しされた自治体関係者は大騒ぎである。にわか仕立ての少子化対策会議で侃々諤々の議論を始めたところも少なくない。
 
だが、このシミュレーションのポイントは「自治体消滅」と裏表の関係にある「東京一極集中」の弊害のほうにこそある。東京に多くの若者が集まるということは、それだけ日本全体の少子化が進むことでもあるからだ。
 
東京ほど出産や子育てが困難な都市はない。住宅事情が悪く、通勤を含め勤務時間は長い。保育所不足など出産育児に対する環境が極めて脆弱なのだ。とりわけ、地方から出てきた人は、家族の支援もあてにできず、産むことをためらう人が少なくない。
 
数字がすべてを物語っている。2013年の合計特殊出生率は、全国平均の1.43に比べて、東京は1.13と突出して低い。東京一極集中は地方自治体を「消滅」させるだけでなく、集まった若者の出生率を下げ、日本全体の人口減少のスピードを加速させる方向に作用しているのである。
 
低出生率は、東京の若者も減らし始めている。あまり意識されることがないが、国立社会保障・人口問題研究所によれば、東京圏の生産年齢人口(15~64歳)は、2000年からの10年間ですでに46万人近くマイナスになっているのだ。
 
「東京一極集中」の弊害はもう一つある。高齢者数の激増だ。
 
かつて流入した“昔の若者たち”が年齢を重ね始めたことに加え、東京に出てきた若者が地方の年老いた親を呼び寄せるからである。国土交通省の首都圏白書は、東京圏で2040年までに387万人も高齢者が増えるとの見通しを示している。
 
問題なのは、若者中心の街づくりをしてきたため、介護施設もそこで働く人も圧倒的に足りないことだ。
 
現在、地方の若者の雇用の多くは医療・介護分野が支えているが、高齢者が減るため介護施設などに空きベッドが生じ働く場所がなくなりつつある。一方で、東京圏では医療や介護職の人手不足が慢性化している。医療・介護分野で働いてきた若者たちにすれば、同じ職種のほうが転職しやすい。
 
こうして東京圏に若者を吸い寄せられる流れがますます強まっていく。東京圏の高齢者数の激増が、地方の若者を呼び寄せ、さらなる少子化を招く皮肉である。
 
政府は高齢社会に備え、都道府県ごとに医療計画を策定して病院機能の再編に乗り出すことにしている。国保の保険者機能も都道府県に移管し、都道府県ごとに医療費の目標値を設定することも想定している。
 
しかし、地方の医療・介護分野で働いてきた若者たちが、仕事を求めてどんどん東京への集中したのでは、地方の医療計画は絵に描いた餅に終わる。
 
別の言い方をすれば、地方の崩壊は医療機関の消滅から始まると言ってもよい。厚労省が病院機能の再編をするまでもなく、人口が激減する地域で医療機関が存続できなくなったのでは、地域の生活そのものもが成り立たなくなる。
 
ところが、地方「消滅」の危機が叫ばれながらも、「日本経済の将来を考えれば、東京への一極集中を否定するわけにはいかない」といった意見はなくならない。東京はこれまで優秀な若者を寄せ集め、世界の都市間競争に勝って成長してきたからだ。いわゆる「集積の経済」である。
 
しかし、こうして見てくると、人口減少への現実的な対応策であるはずの少子化対策も、ただ保育所を増やせば済むといった単純な話ではないことがよく分かる。日本社会の仕組みや人の流れまでを大胆に変えなければ問題の解決とはならない。
 
人口減少社会は、「東京一極集中」という“成功体験”にいつまでもしがみつくことを許さない。われわれは今、価値観の変革や発想の転換を迫られている。
 
 
 
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河合雅司(ジャーナリスト)

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