コラム

    • 多死社会を生き延びる

    • 2015年01月13日2015:01:13:08:00:05
      • 河原ノリエ
        • 東京大学大学院情報学環・学際情報学府 特任講師

「またすぐに逢えるから」
 
そうにこやかに笑いながら、年の暮れに知りあいの女性が逝ってしまわれた。
 
もう何年もガンで入退院を繰り返された後、最期は自宅でと、在宅医療をうけながら、家族や地域のひとたちに見守られた穏やかな最期だった。
 
彼女は、私が四半世紀以上前に幼稚園児の娘の髪を丁寧に三つ編みに編んでくださって以来のご縁でずっと家族みんなでお世話になっている、美容師さんの実家が営む理髪店のおかみさんである。お嬢さんである美容師さんに髪を切っていただいたあと、その母親であるおかみさんに、私は顔そりやマッサージを入退院の合間にやっていただいていた。
 
再開発が進み高層ビルが立ち並ぶ都心のなかで奇跡的に昔ながらの路地裏がつづくなかにあるその理髪店に、うちの家族はみんな通っている。
 
美容の技術の高さもさることながら、その場所にひとつきに一度通うことで、いまの都会の暮らしのなかで失っている大切なものに出遭える気がしていた。家族みんなで経営しているそのお店には、近所のひとたちが、いれかわりたちかわり立ち寄って、よもやま話に花が咲き、地縁、血縁のあたたかさをおもい返して、こころがすこしつよくなる。
 
田舎から出てきて未だにどこか根無し草のような気がしている私達家族にとって、子供たちの成長の歳月も、その理髪店のえにしのなかに一緒に織り込まれていく感じがしていた。
 
おかみさんは、去年の夏、新しい抗ガン剤治療を受けたあと、急速に体調が悪くなっていき、もう年内はもたないだろうからと、自宅に戻られていた。それまでずいぶん元気になられていたのに、新しい治療に移ってからの激変だったようだが、医療への愚痴ひとつなかった。
 
理髪店の2階の自室で療養されていて、余命あと少しというなかでも、なぜかみな明るく穏やかに、いのちの最期の時間を迎えようとされていた。「またすぐに逢えるから」という彼女の言葉は、小学生の孫たちに、あなたたちのこどもとして生まれかわってくるからという意味だった。
 
「あなたの子供としてうまれかわった私を厳しく叱ったりしないでね」と、毎日枕元にくる孫たちに笑いながら話しておられる姿に、家族も近所のひとたちも、死というものをやわらかく受け入れていかれたという。
 
死は最期ではなく、いのちの繋がりのなかにあるということなのだ。医療機関にゆだねる死ではなく、家族のなかで引き受けた最期のときだったからこその時間の流れだったのだろう。納棺師の方も驚かれるほど美しいお顔で旅立たれた。
 
医療技術の進歩と生活水準の向上で平均寿命は延び続け、世界一の長寿国となり、「人は死ななくなった」と日本の社会は錯覚してきた。
 
これは、人口増加が死亡を上回っていたからもあるが、死が医療機関のなかでなされて、ひとの暮らしの営みの中からは見えにくくなっていたからだ。しかしながら、日本は、出生率の低下とともに、今後30年間は死亡率が急増するといわれ、多死社会に突入しているといわれている。
 
昭和40年代、私のこどものころ、在宅でなくなるひとも多く、地域のなかで死はやわらかく開かれていたような気がする。看取りが近くなり、家族の負担が大きくなると、近所でいれかわりたちかわり、介護を交替してあげていた。
 
それは相互扶助だけではなく、死の兆候はどのような状況で迎えるのか、死というものを学びあう機会でもあった気がする。そして新しいいのちが生まれると、逝ってしまったひとの生まれ変わりだと、みんなで信じ込んでいた。
 
多死社会といわれる時代に、私達は、死というものを、人とひとのいのちのつながりのなかで改めて捉えなおすことをしていかねばならないだろう。
 
ひとの死は、血縁地縁の意味をあらためて、わたしたちに問いかけてくるものなのだ。
 
 
 
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河原ノリエ (東京大学 先端科学技術センター 総合癌研究国際戦略推進講座 特任助教)

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