コラム

    • 川を渡る――戦後71年目の宿題

    • 2016年08月23日2016:08:23:08:29:26
      • 河原ノリエ
        • 東京大学大学院情報学環・学際情報学府 特任講師

今日は戦後71年目の終戦記念日である(編集部註:執筆時点)。
 
戦争を知らない人々の割合がどれほど多くなろうとも、連綿と続く過去のいのちの繋がりのうえに生き延びている限り、あの戦争は多かれ少なかれそれぞれの家族の足元に深く埋め込まれている。
 
私は、父が高齢であったこともあり、同年代よりも、深くあの戦争に関わってきたように想う。
 
このコラムでもなんども書かせていただいたが、アジアでの戦争の傷から立ち直れず、富山の山あいで世捨て人のようにしてシベリア帰りの日々をやり過ごす父との葛藤の傷跡を乗り越えるために、私はいまのアジアでのがん連携の活動を続けている。がんであれば、アジアのどの地域であっても、過去から未来につながる活動ができるからと思ったからである。
 
歴史とは無数のひとびと想いから繋がっていくものだとおもっている。
 
父がその想いを残した南京、満州、それぞれのいまに繋がる活動を続けているのだが、戦後71年目の終戦記念日にあたって、もうひとつの心残りがある。
 
 
終戦間近の満州にいた父は、8月9日のソ連参戦時に、松花江沿いの町、依蘭にいた。
 
当時関東軍の精鋭部隊は、戦局の悪化とともに南方戦線に駆り出され、残存兵力の再編成とさらなる兵力増強のため、満州の居留邦人が「根こそぎ動員」によって動員された、いわば寄せ集め部隊の中にいたのだ。
 
父は、関東軍の軍需物資のなかでも重要な位置を占めた木材の調達の流送業者として、兵役免除のはずだったのだが、父も例外ではなかった。こうした俄か仕立ての戦力には、アムール艦隊で乗りつけてくるソ連兵と闘う能力など、あろうはずはなかった。
 
もはやこれまでと悟った父は、残してきた流送の仕事の段取りを、満人たちに託すため、部隊をそっと抜け出した。アムールの本流に合流する白頭山系の松花江からの流れには中国東北部の山々から伐り出された木材がいかだとなって流れついている。下流まで川の流れに託して引き渡さねばならない。戦局がどうなろうとも、川の流れは変わらない。鉄道の枕木、燃料と、人の暮らしを支える物資をとめるわけにはいかなかったと父は後年話していた。
 
自分の経営している会社のそばにもっていた自宅の屋敷中のものを、従業員に、持ち帰るよう告げた。金目のものを探そうとする蜂の巣をつつくような浅ましさは凄まじかったという。
 
そのときソ連兵に連行される直前まで父のそばを片時も離れなかったのが、当時一六歳の朝鮮半島から連れてこられた少年であった。少年の名は崔福寿。
 
絨毯、置物、掛け軸、屋敷のなかに飾られていた金目のものを根こそぎもって帰った中国人の使用人を尻目に、父のそばを離れようとしない崔に、父は、手元にあったあるだけのものをもたせた。
 
崔は父にこう告げられたという。
 
「豆満江は浅いから、ひとりで渡れる。必ず、生きて故郷に帰れ」
 
 
その日のうちに自分が招集された寄せ集め部隊にもどったのち、ソ連兵に連行された父たちは、町のある一カ所に集められた。
 
ソ連兵は、銃口を向けながら大きなすり鉢型の、深い穴を掘らせた。シベリアへ捕虜として移送するため日本人の抵抗を恐れた日本人男性たちをその穴に落とし、絶食状態にして体力の消耗をはかろうとしたのだという。
 
八月とはいえ、松花江沿いの夜気は冷たい。
 
絶食状態に耐えきれず、蹲る父のもとに、ソ連兵の監視の目をくぐりぬけ、夜の闇にまぎれ「おやかたさま」と小さく叫ぶ声があったという。
 
穴のうえを見ると、覗き込む崔少年の顔が見えたという。崔は食料を父に投げ入れた。見つかれば、即、銃殺刑である。
 
「もう、くるな」
 
そういう父のいい付けを、見事に破り、次の日も、その次の日も、崔は、故郷に帰るためともたせてやったもので、食料を手に入れ、父に投げ入れにきた。
 
何日目かに穴から、出された父たちは、ハバロフスク行きの外輪船に乗せられるところまで、ポプラ並木を歩かされて大移動させられた。ポプラ並木の道端には、絶食状態で体力の弱っていたのだろう、先に連れ出された行き倒れの捕虜の死体が転がっている。このポプラ並木の壮絶を極めた死の行軍につかず離れず、ついてくる少年がいた。崔である。ソ連兵の目を盗み、ついてくる。深夜になると、夜陰にまぎれまた、また、食料を運びに来るのだ。もう今夜限りにしろといっても、崔はまたやってくる。
 
数日かけて、ジャムスの街についたとき、いよいよ明日は、ハバロスク行きの外輪船に乗せられる最後の夜だ。
 
「もうこれ以上は、無理だから、ついてくるな」と声をひそめて叫ぶ父に、泣きじゃくるサイ少年。
 
鉄格子越しに別れたそのときが、父は最後と思ったという。
 
父はその後、ハバロフスクからさらにアムール河の河口付近のニコライエフスクまで、過酷な移動をした。厚労省にロシアから戻ってきた父のシベリア抑留記録によれば、11月初旬に、ニコライエフスク近くの作業所に配置されたという。
 
 
朝鮮半島は、その後、戦禍にまみえた。
 
歴史の流れは、根こそぎ人の繋がりを絶っていくが、繋いでもいく。
 
一九六五年、日韓基本条約が結ばれ、国交が正式に回復した。
 
 
その遠い記憶の冬の日は私が4歳のときだった。
 
突然、小さな町の郵便局員と、町役場の人が家を尋ねてきた。
 
父が手にした郵便局員から手渡された一通の封筒の宛名を、玄関の上がり框の台に載って、背伸びして覗き込んだことをいまも覚えている。
 
茶色の粗末な封筒だった。当時、カルタで文字を覚えたばかりの私は、声をあげて読み上げようとして、母に袖を引っ張られた。
 
たどたどしい文字で
 
「とやまけん、おんたに 林三郎」
 
半年ほど前から、何通かこうした奇妙な宛名の郵便が、富山の中央郵便局にきていたのだという。「おんたに」とは、戦前の集落の字名で、昭和四〇年代にはもはや地元の人の記憶の隅にあるだけであった。何度も届く同じ手紙の扱いに困りながらも、中央局の担当者は、差出人の住所として書き記してある住所に捨て置けぬ何かを感じた。差出人の住所が、日本海を遠く、隔てた隣国大韓民国だったからだ。
 
担当者は、仕事の合間合間に、県内の郵便局に、「おんたに」という名の地域があるのかと、各地の郵便局に問い合わせをしたのだという。郵便番号もなく、手作業で、人から人に便りが繋がっていた時代ではあったものの、戦後の新しい市町村の誕生によって、昔の土地の名前は忘れ去られ消え去っていくものだった。でも、何件目かの問い合わせのなかで、聞いたことがある人の記憶に出くわしたのである。
 
そして、何人もの記憶を手繰り寄せて、ようやく見つけ出されたのが、父の名前であった。
 
「こころあたり、ありますけぇ」
 
訝しげに聞く、職員に、差出人の名を見た父の手が震えた。
 
「生きてかえった。
 おやかたさまは、生き延びておられるでしょうか。
 あいたい。あいたい。」
 
わら半紙のような紙な小さな紙に、ひらがなのたどたどしい文字が並んでいた。
 
 
父からの言いつけどおり、豆満江を歩いて渡って故郷に戻った崔はその後、リベリア船籍の船乗りになっていた。
 
日韓基本条約が締結されたのを待って、父の安否を捜し始めたのだ。
 
船が日本の港に寄港するたびに、手紙を投函していたのだという。
 
手がかりはたった一つの地名、父のそばにいたときに、父の生まれ故郷として耳にした覚えのある「おんたに」という地名であったのだ。
 
苦労して崔が探し当ててくれた父は、戦前の面影もなく落ちぶれた暮らしをしていた。「戦争が終わったら、東京の大学に行かせてやる」そう崔にしたという約束も、とうとう適わなかった。
 
しかし、崔はその後も、何年にもわたり、船乗りとして日本に寄港するたびに富山の田舎町を訪ね続けるのだ。満州の地で、「おやかたさま」と慕った人の戦後のうらぶれた姿は崔にとってどう映っていたのだろう。
 
父が大東亜の地に賭けた想いの底には、薄めて呑み込むことのできぬ闇があった。与えられた土地に行かされ最後に「満州の馬鹿やろ」と捨て台詞を吐ける満州開拓団とは違う。昨夜のNHK特集で、開拓民を満州に送り出した長野の村長が戦後、「開拓民に申し訳ない」と自死をしたことを、静かに放映していたが、父の戦後の時間も、自死をしたような暮らしだった。前人未到のびょうびょうとした荒野を、日本人、満人、朝鮮人、そして用心棒にやとった白系ロシア人の大所帯を引き連れて、木材運搬の流送業者として川から川へ渡り歩く。そこにどんな苦難があろうとも、巻き込んだ人間たちへの責務を背負っている。この人間の胸に去来していた、この地で生き抜き、多くの人々を喰わせていかなければならぬというギリギリの想いを抱えていた。そのこころが通じたのか、崔は、父をいつしか「お父さん」と呼ぶこともあったという。
 
 
戦後日本の復興とともに、多くの満州帰りの人々が、昔の夢が忘れられずに、投機的な商売に走った。しかし父は復員後、そうした人との付き合いに一切背を向けて、鄙びた温泉宿の使用人に求めた。昭和三〇年代まで、日本でも有数の豪雪地帯として、「白い魔物」が人々の暮らしを逃れられないように縛り付けていた土地だった。一年のうちのかなりの月日を雪に閉ざされるこの地で、父のこころは、シベリアのラーゲリにあり、そしてあの戦のなかにあったのかもしれない。彼の地で「帰りたい」と願った故国が、本当にここだったのだろうかと、生き延びてしまったものの魂は、よるべなく宙づりになっていた。
 
戦後の長い時間を、近所の旅館の下足番まがいの仕事をし、遠い視線で、川筋を見つめていた。生き残る羽目になってしまった自分のふがいなさと、戦後の日々のなかでもてあましていた姿が、いまも目に浮かぶ。
 
戦後の長い時間を、シベリアから戻った故郷の川べりの町で、栄華を極めたといわれる戦前とはまったく別の人間として生きた、父がぽつねんと遠い眼差しで見ていたものはなんだったのか。蹲ったまま立ち上がれなかった人間にとって、下から仰ぎ見た、戦後日本はどう見ていたのか。
 
もうこの世にいない父に尋ねるすべはない。
 
毎年訪ねてくれるようになった崔との付き合いはその後10年ほど続いた。
 
訪ねてくれるたびに、昔の話になり、雇い入れていた朝鮮半島の人々の話をしていたという。
 
しかしながら、彼にも彼の事情があったのだろう。突然連絡がとれなくなり、我が家も父が脳梗塞で倒れたのちの介護の最中で、崔との関係は途絶えたままになってしまった。
 
先日、自分が旅立った後の始末をしなければと、いろいろな整理を始めた母が、崔少年の釜山にある親戚の住所を見つけた。母が、苦しい家計をやりくりしながら、崔の兄夫婦の娘に、日本のお菓子や私のお下がりの洋服を送ったときの送り状の写しだった。
 
「崔さんになんとか、会えないだろうか?」
 
90歳を過ぎた母が、もし崔少年が生きていらしたら、どうしても聞いてみたいことがあるという。
 
「なぜ自分の命の危険にさらされながら、父を助けようとしたのか。
 そして、戦後の時を経て、落ちぶれた父にずっと会いにきてくれていたのか」と。
 
それは私も同じ想いだ。
 
日韓基本条約締結を待って、探し当てて再会を果たしたときの崔と父とのあの激しい抱擁を幼い日々のなかから手繰り寄せるとき、歴史の流れに翻弄されながらも、人は生き延びていくのだということを思い知る。崔に戦争が終わったら東京の大学に通わせてやるからと約束したのに、果たせなかったと深く頭を垂れていた父の姿が今も目をつむると浮かんでくる。
 
東アジア外交は、近年混迷を極めていたが、ようやく安定したトラックに乗り始めたように思う。
 
いまこそ、本当にようやく過去をみつめて未来を紡ぐというフェーズに入ったとおもう。
 
この秋、私は、なんとか崔福寿少年を探そうと思っている。
 
戦後71年目の私の個人的な宿題である。
 
 
写真1 日韓基本条約締結を待って父を訪ねてきてくれた崔と私たち一家
 
写真2 白頭山麓において松花江支流を使い関東軍の軍事用資材の運搬に携わっていた父
 
写真3 流送事業
 
 
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河原ノリエ(東京大学大学院情報学環・学際情報学府 特任講師)

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