コラム

    • 行き過ぎた分業

    • 2016年10月11日2016:10:11:12:55:04
      • 森宏一郎
        • 滋賀大学 経済学系 教授

環境・経済・社会のバランスをどう取るかというサステイナビリティの問題がさかんに指摘・議論されている。たしかに、社会全体を覆う閉塞感のようなものも感じる。一体、何が問題なのだろうか。問題の本質は、行き過ぎた分業と市場依存にあるのではないか。
 
 

◆里山資本主義

 
分業は「特化(専門化)の利益」と市場取引を通じた「交換の利益」の2つをもたらす。経済的な豊かさは間違いなく、分業に基づいた効率化(専門化を通じた技術革新を含む)によってもたらされている。この点は否定できない。
 
だが、分業が行き過ぎていると幸せになれないかもしれない。そんな問題提起が出されてきた。その代表格は里山資本主義である(注1)。
 
分業すると、人が生活していくためには、必ず市場からモノやサービスを買ってこなければならない。市場で買い物をするためには、ますます専門的に労働を増やさなければならない。そんな経済生活で幸せになれるのか?
 
経済全体を巨視的に見ると、「分業と市場に過度に依存する経済では、節約は善ではなく、エネルギーや資源をどんどん使用し、そのコストを上回る収益を上げていけばよく、それが豊かさであるということになる」という。これでは、環境面のサステイナビリティを実現するのも難しい。
 
では、どうするか。里山資本主義では、小さい地域で一人の人間がいろいろなことに従事し、部分的に自給自足的経済をつくることによって、市場への過度な依存から脱却し、環境・経済・社会をバランスさせたシステムを生み出すことができるとしている(注2)。
 
 

◆都市型と農村型の融合

 
9月下旬、研究プロジェクトの一環で研究者・学生とともに愛媛県西条市を訪れて、現地の多様な人々へのインタビューを通じたフィールドワークを実施した。都市と農村の相互作用による豊かさの実現をテーマに研究している。
 
沿岸地域には工業地帯、駅の近くには居住地域、川を挟んでやや内陸寄りには農業地帯が広がっている(写真1)。そして、南側には四国山地が控えており、壮大な景色が広がる(写真2)。四国山地のおかげで地下水資源が豊富に存在し、町は上水道や浄水処理施設を必要としない。
 
 
【写真1】 西条市の景観
※ 西条市役所考古歴史館(八堂山)から筆者撮影。写真には写っていないが、西側(左手)にいくと加茂川があり、川の西側は田園地帯が広がる。
 
 
【写真2】 山地の景観
※ 黒瀬ダム付近で筆者撮影
 
 
西条市にとって農業が重要な産業の一つであることは間違いないが、工業用地に立地する二次産業も欠かせない。筆者の勝手なイメージだが、田畑と山で形成される風景は美しいが、そこに工場が混ざっていると、美しくないと感じる。
 
だが、この風景の中には都市と農村の両方が含まれており、見るスケールを変えてみると、西条市の景観は社会の縮図を示していると言える。都市と農村がうまく相互作用して、経済的報酬だけではない豊かさを獲得するためにはどうすればよいか。まずは西条市のスケールで考えてみた。
 
農業に従事する者、工業に従事する者、サービス業に従事する者がそれぞれの利益を最大化すると、環境や社会面で負の外部効果が出てくる。公害問題は規制と技術革新によって大きく改善している状況ではあるが、公害問題はその一つの例である。土地や水の利用でもトレードオフがある。
 
社会的にも、農業に従事している伝統的に居住している人たちと工業やサービス業に従事する新参者の間に摩擦があるという。市としては、どちらの利害関係者も重要なメンバーであるのだが。
 
各人がそれぞれの仕事に専門特化し、効率性を極大化させてきたため、それらの間の摩擦が大きくなって、社会全体としてうまくいかなくなっている。そこでは、効率性を極大化する中で、バランスを考えた全体最適を考えること(人)が必要という考え方をすることが多い。
 
しかし、それぞれがそれぞれの利害だけに執着して効率化しているところで、事後的に外部から全体最適を図ろうとしても、うまく機能しない。トレードオフにある利害関係者の複雑な関係は簡単には変わらないからである。
 
トレードオフになっている利害を同じ人が考えたり感じたりするように社会システムを変えないといけないのではないか。これが私の仮説的な答えである。たとえば、農業と工業の両方に従事する人がいると、彼らは農業と工業の間のトレードオフ問題を内在的に考えざるを得なくなる。
 
仮説的アイディアを具体的な形に変換できるように研究を続けたいと思う。少なくとも西条市のスケールぐらいで、こうした分業から融合への発想の転換はできないものだろうか。
 
 

◆細分化する学問から統合化された解決策へ

 

8月初旬、福岡で行われた国際学会へ英国留学時代の師匠であるPerrings先生を基調講演者として招待した。約10年ぶりに留学中の仲間とともに師匠と再会して、感激もひとしおだった。
 
基調講演では、笑いを誘う興味深い話があった。先生は生物多様性の経済学を研究する中で、経済学者だけではなく、生態学者ともコミュニケーションを取ってきた。そうしているうちに「おまえは経済学者なのか? それとも、生態学者なのか?」と問われるようになったという。
 
この単純そうに見える話には、物事の本質が入っているように思える。学問研究は分業化を進め、細分化・専門化を通じて、飛躍的に発展してきた。さらに、専門的に発展してきた知恵を専門家間で効果的に交換できれば、分業から専門化と交換の利益の両方を享受できるだろう。
 
しかし、分業が進み、研究者は何かの専門家でなければならないと強く制約されるようになると、異なる専門家間でのコミュニケーションは著しく難しくなる。そのうえ、各専門の観点(学問も価値観から自由というわけではない)に縛られた問題解決が提示されていくようになる。
 
他方、実際のサステイナビリティの問題に対処しようと思えば、異なる専門の知恵を共有化するか、あるいは、同じ人の頭に入れるかしない限り、うまい解決策にはなかなか結びついていかない。トレードオフの関係にある複雑な要因を同時に扱わなければならないからである。
 
いま、分業と融合の間のバランスを取らなければ解決に至るのが難しい問題を多く抱えるようになっているのではないか。分業が行き過ぎたせいで、考慮すべき対象の間のバランスを取らなければ社会全体が機能しなくなってしまったと言い換えてもよいかもしれない。
 
 

◆おわりに

 
分業によって得られる特化の利益と交換の利益は普遍的に価値がある。これは否定できない。学問でもビジネスでも分業によって効率性は大きく飛躍してきたし、専門性も著しく高くなってきた。しかし、分業と融合の間のバランスに注意を払うことを忘れないようにしなければならない。
 
これを忘れると、効率化圧力が暴走して、人間社会は豊かで幸せにならないのではないか。効率化圧力によって社会全体のパイは確かに一時的に大きくなるかもしれないが、環境制約を突き破り、サステイナビリティが失われるかもしれない(注3)。
 
確かにお金で測る経済的報酬の大きさは軽視できないものの、異なる複数の要因が複雑に影響しあう働き方や生き方というプロセス自体も人々の幸福には大事な要素になっているのではないだろうか(注4)。
 
単一の目的だけを追求するのは単純で分かりやすい。しかし、元来、我々はトレードオフになっている複数の要因をコントロールしながら、持続可能なスタイルで生きてきたように感じる。人間が物事をなんとなくファジーに解決するのが得意だということと関係しているのではないだろうか。
 
 
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(注1)藻谷浩介・NHK広島取材班(2013)里山資本主義,角川新書(リンク). 井上恭介・NHK里海取材班(2015)里海資本論,角川新書(リンク
(注2)一国全体ではどうすればよいかは明確ではないが、より大きなスケールでのサステイナビリティを実現するためのヒントはあるように思える。
(注3)Meadows, D., Randers, J., Meadows, D. (2004). Limits to Growth. The 30-Year Update. Chelsea Green Publishing, Vermont(リンク). de Vries, B.J.M. (2012). Sustainability Science. Cambridge University Press(リンク
(注4)藻谷浩介・NHK広島取材班(2013)里山資本主義,角川新書(リンク). Stevenson, B. and Wolfers, J. (2008). Economic Growth and Subjective Well-being: Reassessing the Easterlin Paradox. NBER Working Paper 14282(リンク
 
 
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森宏一郎(滋賀大学 国際センター 教授)

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