コラム

    • 人間は不合理なのが当たり前?

    • 2016年12月06日2016:12:06:11:33:41
      • 森宏一郎
        • 滋賀大学 経済学系 教授

◆合理性 対 不合理性

 
経済学やゲーム理論では合理的な人間を仮定して議論を進める。他方、たいてい人間が合理的に行動しないことも有名ない話である。ダン・アリエリーの議論(注1)やダニエル・カーネマンの議論(注2)がそうである。
 
人間が完全に合理的に行動しないことを少し高度に表現すると、「限定合理性(bounded rationality)」と言う。自分の日々の行動をちょっと思い出せば、たしかに自分の合理性は限定的だと思える。店で商品を眺めて初めて、ほしいものが分かる(ほしいと錯覚?)ことも多い。
 
一方、市場での需給バランスと価格変化のような集合体の傾向は合理的な個人を仮定した議論で比較的十分に把握することができるように見える。ほとんどの人が不合理でも、一部の合理的な個人が裁定取引で儲けると、その結果から不合理な個人も追随するようになるからだろう。
 
もっとも、不合理な個人の追随行動ばかりが目立つようになると、経済のファンダメンタルズ(経済の実態として基礎的条件)を無視したバブル経済が発生したりもする(注3)。
 
それでも、総体としては、合理的な個人を仮定したモデルで把握できる。超過需要・過少供給が起これば、価格が高騰することは、通常の経済モデルで理解可能だからだ。
 
議論としては決して新しいものではないが、どういうわけか学生と勉強していると、最近やたらと人間の合理性・不合理性を考える機会が多い。そこで、本コラムでは、人間の合理性・不合理性の雑感を書きたいと思う。
 
 

◆本当に自分で選択しているのか?

 
アリエリーやカーネマンの本(注1&2)の中には、いかにも不合理な個人の様子が実験結果を通じて描かれている。それらを知ると、自分の日々の行動が不合理なのではないかと疑心暗鬼になってしまう。
 
たとえば、プライミング効果というのがある。禿げ、ごましお、しわなどの老人を想起させる言葉を見せられると、行動スピードが老人のように遅くなるというのである。いつの間にか洗脳されているようなものであり、恐怖を感じる話である。
 
ハロー効果というのもある。最初のイメージがその後の考え方や捉え方に影響を及ぼすというものだ。テストの採点で1問目の点数が高いと、出来が悪くても、つい2問目の点数を高くしてしまうというのがその例だ。カーネマン自身が経験したというのだから、私も注意しなければならない。
 
アンカリング効果というのもある。最初に示された数値に影響を受けて思考してしまうものである。たとえば、最初に示された価格に影響を受けて、たとえ値切るとしても、示された価格を基準に考えることになってしまう。思考停止状態で他人に搾取されることにつながりかねない。
 
カーネマンによれば、脳の働きは単なる直感である「システム1」と意識的な思考である「システム2」から成り、多くの場合、システム1の影響を受けるという。その状態では、多くの行動が不合理となる。
 
こんなことを知ると、買い物時に「自分は今、ちゃんとシステム2で思考して買うものを決めているのだろうか?」と疑心暗鬼になってしまう。本当に食べたいのかどうかが分からないままチーズケーキを買う自分をシステム2が意識的に捕捉しているなんてことになってないだろうか。
 
アリエリーは言う。「大半の人は、自分の求めているものが何かが分からずにいて、状況とからめて見たときに初めてそれが何なのかを知る。」(注1) 
 
 

◆ゲーム理論を理解した学生のオークションでの入札行動

 
オークション方法の中に、セカンド価格オークションというのがある。このオークション方法では、入札者がお互いにいくらで入札したのかが分からない状況で、最高金額で入札した人が落札し、購入価格が2番目に高い入札金額に決まる。
 
セカンド価格オークションでは、合理的な入札者の最適戦略は商品に対する入札者の評価額で入札することである。入札金額が入札者の評価額よりも高くても低くても、入札者の不利益になる。
 
入札金額が評価額よりも高いとき、もし落札できると、2番目に高い入札金額が評価額よりも高い場合があり得る。この場合、評価額よりも高い購入価格を支払わなければならなくなり、明らかに損失となる。
 
また、入札金額が評価額よりも低いとき、他の入札者に自分の評価額よりも低い入札金額で落札されてしまう場合があり得る。この場合、本来、落札した場合に得られるだろう評価額と購入価格の差の利得を失うことになり、機会損失となる。
 
ところが、実際にセカンド価格オークションがインターネットで行われると、自分の評価額で1回だけ入札するのはきわめて稀で、同じ入札者が何度も入札するのが観察される(注4)。これは、単純に、最適戦略が何かが分かっていないからだろうか。
 
それとも、商品に対する自分の評価額であるにもかかわらず、評価額が分からないからだろうか。セカンド価格の水準やセカンド価格の上昇に影響を受けて、評価額が容易に変わってしまうからだろうか。
 
はたまた、サッサと評価額で入札してしまうと購入価格が過剰に上昇してしまうと考えているからだろうか。いずれにしても、不合理な意思決定をしていることは間違いないが、どれもなんとなく同感できてしまうところが恐ろしい。自分も合理的な人間ではないのかもしれない。
 
これに関連して、セカンド価格オークションの原理と合理的な入札者の最適戦略を完全に理解した学生6人と私の合計7人で、次のような想定の実験を行った。
 
『ある商品のセカンド価格オークションに「1度だけ」入札できる状況で、商品に対する自分の評価額が10,000円である状況を考える。現時点での購入価格が2,000円(つまり、2番目に高い入札金額が2,000円)で、入札期限の1秒前となりました。このとき、いくらで入札しますか?』
 
原理も最適戦略も理解している人たちなので、全員が当然10,000円と書くはずである。ところが、そうはならなかったのである。結果は下の表1のとおり、10,000円と書いたのはわずかに1人だった。どういうことなのだろうか。
 
 表1
 
 
上から順番に理由を聞いていくと、実に不合理なのだ。9,999円と答えた人は、2番目に高い入札金額が購入価格になることを理解しているはずなのに、評価額の10,000円と書くと利得がゼロになるのではないかと勘違いしたのである。9,500円も同じ理由である。
 
10,010円と書いた人は、入札金額はせいぜい10円単位で動くだろうと勝手に想定し、損をせずに絶対に落札したいので、10,010円と書いたらしい。だが、このとき、10,009円で入札した人がいたら、9円の損失を出すことになるのだが・・・
 
8,900円の人も「セカンド価格」のことを忘れたうえ、多くの人は入札金額を500円単位のキリの良い数字で設定するに違いないと考えて、なぜか9,000円よりも100円少ない金額で入札した。分かるような説明になるように何とかここに記しているのだが、書いていて全く筋が通らない。
 
2,000円は意味不明である。現在の2番目に高い入札金額が2,000円だと分かっているのだから、落札するためには、少なくとも2,001円以上の金額で入札しなければならない。この人は「別に落札しなくてもいいや」と語った。評価額は10,000円だと仮定したにも関わらず・・・
 
そして、「カンピューター」の典型のような答えが6,000円である。原理も最適戦略も理解しているはずなのに、こんなことを言うのだ。「10,000円と2,000円の中間で、ちょうど良くないですか?」
 
 

◆おわりに

 
学問研究としては、総体としての社会を理解するために、不合理な人間を仮定したモデルを考えるというのは少なくとも部分的には必要だと思う。
 
他方、個人の観点では、不合理さを理解して、不合理な行動を取ることを受け入れることが重要なのだろうか。それとも、人間の本源的な不合理性を踏まえて、いつも合理的に最適戦略を採用できる人間になれるように努力すべきなのだろうか。そのあたりがよく分からない。
 
システム1を捨て去るのはきわめて困難なのだろうし、他方、システム2をきちんと稼働させることの重要さも感じる。人生をより良く生きるためには、システム2に基づく行動の割合を増やしていくべきではないかとも思える。今後も学生とともに考えていきたい。
 
 
 
=====================================
(注1)ダン・アリエリー(2008)予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」,熊谷淳子(訳),早川書房(リンク
(注2)ダニエル・カーネマン (2014)ファスト&スロー(上・下),村井章子(訳),ハヤカワ・ノンフィクション文庫(リンク
(注3)金子勝(2008)閉塞経済―金融資本主義のゆくえ,ちくま新書(リンク
(注4)渡辺隆裕(2008)ゲーム理論入門,日本経済新聞出版社(リンク)
 
 
 
---
森 宏一郎(滋賀大学 国際センター 教授)

コラムニスト一覧
月別アーカイブ