コラム

    • ネットを利用した政治的な発言や個人の発信がもたらす影響と対策

    • 2017年10月03日2017:10:03:06:33:54
      • 佐藤敏信
        • 元厚生労働省勤務・久留米大学教授

この原稿を書いている時点で、永田町は解散へ向けて臨戦態勢だと言う。その直前の数週間を見ても、選挙の趨勢に影響しそうな、いろんな話題があった。それらの多くはネット社会ならではのものであり、ネットを利用する上での怖さをあらためて思い知らされた。
 
筆者は、ITの専門家ではないが、ユーザーとしてはそれなりに長い経験がある。まだパソコン通信と呼んでいた時代には、音響カプラーを使っての通信も経験した。モデムも長年にわたって愛用したし、緑色の公衆電話を使っての通信も利用した。ニフティサーブ経由で、航空券の予約などもした。インターネットは1992年に商用解放される前に、すでにgopherなどでの検索も経験していた。
 
それにしても、この25年ほどの間の、利用環境・利用状況には目を見張るものがある。
 
まず、カメラ付きスマホが普及し、だれでもいつでも現場の目撃者、記者になったということ。しかもそのデータが瞬時に世界へ発信されることになったということ。それに関連して、これまでなら追及されても「記憶にない。」とか、「事実誤認でしょう。」とか言っていれば何とかなったものが、そうした映像による証拠によって、申し開きができなくなってしまったこと。
 
次に、SNSによる発信がしばしば墓穴を掘るということ。Facebookの利用は要注意である。人気が重要なタレント、商品の宣伝目的、団体の長として会員の勧誘などが目的でない限り、興味をもって検索する人からはプライベートを丸裸にされると考えた方がいい。食事をしても、レストランを特定されたり、場合によっては自宅まで突き止められてしまう。
 
Twitterも相当に危険である。「つぶやき」と訳されるため、思ったことを素直につぶやけばいいのだと思い込んで書き込んで、しばしば「炎上」する。自分の考え方をこういう新しい発信方法でつぶやいて、世の中に伝えるのだという間違った正義感を持っている人がしばしばこの罠に落ちる。もっとも、これによって、つぶやいている人本来の性格、たとえばおっちょこちょいとか決めつけ型の人とか、いったんつぶやいたことが後で間違っているとわかってもそれを素直に認めないタイプの人とかがあぶり出されるので、私のような野次馬には大いに役立つ。
 
ここまで書いたようなことは今さら言われなくともわかっていると言われそうだが、多くの知識人とか大学教授とか一定の立場にある人が、さらには大新聞の記者までもが失敗している。今この瞬間にも、自ら燃料をくべて炎上し、人間としての本質まで見抜かれ、嘲りの対象にまで成り下がっているのだ。個人攻撃をするつもりはないが、ごく最近でも、読谷のチビチリガマの破壊の犯人像の類推や北朝鮮のミサイル発射についての言及などで、ご自身の見識のなさ、狭量さ、硬直性を露呈している、「知識人」が多数いる。
 
この2つの事象に共通しているのは、ネットの世界に向けて発信したものは、その海の中で永久に漂流し続けるということである。織田信長がどう言った、坂本龍馬がどう行動した、吉田茂がどう言ったは、あくまで伝聞、せいぜい古文書の一部であり、いずれは消えていく可能性もあるが、この場合はそうではない。子々孫々に至るまでその言動に縛られる可能性がある。即座に削除すれば大丈夫と思われるかもしれないが、いったんネット上で目を付けられると「魚拓」を取っている人がいて、これを発信されることになる。
 
そればかりではない。他人のプライバシーが容易に公開されることで、妬み・嫉みの感情を惹起している可能性がある。経済の低成長時代が続き、ストレスも多い中で、他人が幸せそうに食事をし、旅行をしがあからさまになると、それらに対する鬱屈した感情が攻撃となって表れるのである。匿名やユーザーネームを使って「飽和攻撃」でもされると、お手上げである。
 
では、こうした時代に対処するにはどうしたらいいだろうか。一つ目は、当たり前だが、世界に発信されるような場所、場面では「つぶやかない」ことである。人間は失言する。失言しなくとも、経験や他人からの助言によって考えを変えることはある。つぶやけば、その言葉は独り歩きする。そして取り消せない。ネットの世界に慣れていないうちは、あえてつぶやかない勇気(?)も必要ということである。
 
二つ目は、システムを確認するということである。多少マニアックになるが、写真の場合、デフォルトが、GPS情報が記録されるようになってないか、日時情報が書きこまれる形式になっていないか、個人のフォルダーにアップしたつもりが、誰からもアクセスできるようになっていないかを確認することである。また絶対に写り込んでいないと思って撮影しても、後ろの窓ガラスに他の人影が映っていたとか、場合によってはワイングラスに映っていたという事例も聞く。
 
三つ目は、それでも発信したいのなら、「つぶやく」のではなく、よく吟味し練り上げて推敲するということである。筆者は、退官後、国際政治の舞台での発言をネットニュースで見ることが多くなった。既存のマスコミの場合、紙面や放映の都合上、一部分を切り取って短く報道されることが多いが、ネットニュースでは、全文が掲載されることが多く、しかもニッチな読者に向けて詳細な解説がなされることがある。そうすると、ホワイトハウスなどが、日々の一つ一つのコメントにどれほど心を砕いて対応しているかが見えてくる。単語の使い方、言い回しなどに深い意味やメッセージが込められているのだ。
 
筆者が考えるには、アメリカ自身もこれまで何度か失敗をし、その苦い経験が生かされているのだと思う。ちょっと大げさな話になるが、アチソンラインの例をあげよう。1950年アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言し、朝鮮半島には言及しなかった。この発言を聞いた金日成は、アメリカは朝鮮半島南半部を放棄したものと推察し、「南進」を決断したとされている。つまり、アメリカですら、政府高官のちょっとしたスキのある発言が、時として戦争にまで発展するということを、身をもって体験したのだろう。
 
その点では、中央省庁にはある程度の下地はある。法令の検討に当たっては、憲法はもちろん、他の法令や、場合によっては通知レベルまで検索し、単語の定義、選び方、理論的展開など幅広くチェックをする。そのために内閣法制局も存在している。同様に国会答弁も、可能な限り過去の答弁と突き合せ、整合性を図る。この点は神経質と言ってもいいほどの丁寧さである。
 
平和ボケというのも言い古された言葉だが、外交も含めてアメリカ任せだったわが国も、今や自分の言葉で重み、含みのある発信をする時代になった。政治家は言うまでもなく、個人もネットという強力な手段を手に入れた以上、相当の自覚と判断力をもってこれを利用する必要がある。
 
 
 
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佐藤敏信(元厚生労働省勤務・久留米大学教授)

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