コラム

    • 建物を愛でる術

    • 2017年10月24日2017:10:24:08:43:14
      • 林憲吾
        • 東京大学生産技術研究所 講師

◆4つの行為

 
前回のコラムでは、建物を愛でる意義について書いた。その意義は、端的にいえば価値の補正にある。
 
建物の不備に目が行きがちな私たちの意識を、建物の魅力へと向けさせる、そういう作用が愛でるである。
 
では、実際に建物を愛でるにはどうすればよいのか。今回はその術について考えてみたい。
 
結論からいえば、観る・探す・食す・語る、この4つの行為が その術である。 自分と関わりのある事例とともにそれぞれについて述べていきたい。
 
 

◆観る

 
建物の愛で方として最もオーソドックスで一般的な方法は鑑賞だろう。
 
たとえば京都では、春や秋に文化財の特別公開が行われる。普段は入れない建物を期間限定で公開し、建物に触れる機会を人々に提供する。
 
建物を観て楽しむこうした行為は、旅先や休日の振る舞いとして社会に すっかり 定着している。さらに 「観て楽しむ」には、「聞いて楽しむ」が時折付け加わる。
 
公開されている建物では、しばしばガイドツアーがある。専門家や地域の人が、その建物にまつわる歴史、建物の見所などを語る。
 
これには建物の楽しみ方や面白がり方を伝える効果がある。単なる知識の共有を超えて、建物の魅力をどうやって見つけるかを共有できる。
 
現在、私は m ASEAN a(modern ASEAN architecture)というプロジェクトに参加している。このプロジェクトは、アセアン諸国の近現代建築の保全促進を目的として2015年に立ち上がった。
 
私が専門とするインドネシアでは、1949年にオランダから独立を勝ち取ったのち、新国家建設に伴い、モスクや競技場、ホテルなどが、国内外の建築家によって当時の先端的なデザインで建てられた。
 
しかし、これらの建物に対する一般の人々の関心はまだそう高くない。オランダ植民地時代の建物への関心が高まり、観光資源として利用されているのに比して、 戦後の建物を歴史的な建物として評価し、保全していこうという動きは、まだほとんどない。
 
この状況を 改善するために、私たちのプロジェクトで始めようとしていることは、 建物を人々に観てもらうことだ。 今年11月にはインドネシアのジャカルタで、戦後の建物を市民と巡るガイドツアーを現地の研究者らと実施する。
 
普段何気なく目にしている建物を皆で訪れ、研究者らがどんな風にその建物を観ているのかを分かち合うといったやり方で、戦後の建物を市民と一緒に愛でようというのである。
 
写真1:イスティクラル・モスク(1955年設計)(シラバン邸所蔵)
 
 

◆探す

 
日本ではいまや全国のあちこちで明治以降に建てられた近代建築の保全と利活用が進んでいる。そのきっかけになった行為が「探す」である。
 
どこに、どんな近代建築が残っているのか、日本全国でその全貌が知られるようになるのは1980年のことである。それぞれの地域の 建物を、 研究者たちが ひとつひとつ確認し、近代建築のリストをつくる作業によってそれは明らかになった。
 
公開したり、保全したりするには、そもそもそういう建物を探し出さなくてはならない。つまり、 近代建築をはじめ歴史的建造物の保全を進める上で、リスト作りは最も基礎的な作業であり、インドネシアでのリスト作りに私も関わってきた。
 
その結果思うのは、この探すという姿勢が、建物を愛でることにつながるということである。
 
たとえば、まちから近代建築を見つけ出すには、ただ漫然と建物を眺めていてはできない。むしろ、それぞれの建物をじっくり観察し、その特徴や価値を能動的に見つけ出そうとしなければならない。
 
対象物への狩人のような鋭敏な視線を自分に課すことによって、自らの意識を建物の魅力の方に向けることができる。
 
 

◆食す

 
花を愛でるように建物を愛でたい。前回のコラムで私はそう書いた。花は、愛でる対象として、私たちが最も慣れ親しんできたものといってよい。
 
これまでに述べた「観る」・「探す」という建物の愛で方は、花でいえば「生ける」・「採集する」といった楽しみ方に通じるものがある。他にも花を楽しむように、建物を楽しむことができよう。
 
日本でメジャーな花の楽しみ方といえば花見だろう。春になるとたくさんの人が満開の桜の下で宴に興じる。
 
花見というのは、採集のような積極的に価値を探していく行為とは対照的に、いわば間接的に花を愛でる行為である。満開の桜の下という場を借りながら、集まった仲間と食事を共にすることに主眼が置かれる。
 
日本には直会と呼ばれる共飲共食の儀礼がある。神事の最後に供え物を皆が一緒に味わうことで、神と人、人と人との連帯を強める。
 
皆で食すという行為には、そのような一体感を生み出す効果がある。しかもそれは、神と人、人と人をつなぐだけではなく、人と場所もつなぐ。私たちは花見をとおして、桜の価値をぐっと高めている。
 
こうした花見のような愛で方が建物にもできよう。
 
岩手県一関市に旧達古袋小学校という1951年完成の木造校舎がある。119mもの長い廊下を持つ“ながなが”した風変わりな校舎で、「なかなか遺産」第1号に認定されている。
 
なかなか遺産とは、 全国にある「なかなか~」と唸らせるユーモラスで魅力ある建物を遺産として認定し、その存続を応援していく取り組みである。
 
達古袋小学校は2013年に閉校したが、このながながした建物を守りたいと一関の人たちが中心になってNPO法人を立ち上げ、建物の保全を実現させた。
 
旧達古袋小学校 では、長い廊下を粋に使ったイベントを多数開催している。そのひとつが「ながなが廊下レストラン」である。
 
長い廊下に机と椅子を並べて皆が詰め詰めになって食事をとるこのイベント。その写真を見たとき、花見に負けない、みごとな建物の愛で方だと膝を打った。
 
実はこの建物、私自身はまだお目にかかったことがない。11月5日には長い廊下を使った恒例行事の「雑巾がけ競争」が開催される。それに合わせて足を運び、このながながとした廊下を味わってみたい。
 
写真2:ながなが廊下レストランの様子(阿部えみ子氏提供)
 
 

◆語る

 
花見の興じ方は今ではもっぱら飲食であるが、平安時代の貴族たちは花を歌に詠んだ。いわば言葉を介して花を愛でた。そんな風にして建物を愛でる方法もやはりあるだろう。
 
京都の総合地球環境学研究所(略称、地球研)に籍を置いていた頃、「京都・岡崎〈百人百景〉」というイベントを催したことがある。
 
〈百人百景〉というイベントは、竹中工務店の松隈章さんが始めたもので、およそ100人の参加者が、使い捨てカメラ「写ルンです」を片手に、まちを日がな一日歩き回り、思い思いの風景を27枚写し取るというものである。
 
その手法を借りて、当時地球研にいた村松伸さん、鞍田崇さん、京都精華大学の後藤直子さんらとともに、京都市岡崎を舞台に開催した。
 
136名の参加者が、岡崎のまちをうろうろしながら、気になったものや、好感をもったものなどを、自由に選んでシャッターを切った。まちの中から心留まるものを探し出すこのイベントは、それ自体が、建物というより、まちを愛でる取り組みである。
 
だが、岡崎でのイベントでは従来の〈百人百景〉にはない、まちの愛で方も試みた。それが茶話会である。
 
日暮れ時、ひっそりとした佇まいの茶房「好日居」にて、岡崎にまつわるお茶とお菓子を口にしながら、約10名の参加者が互いの撮影を振り返るというものである。
 
参加者それぞれによるまちをどう見たかという語りは、写真で切り取った気づきや好感を、言葉で再変換したものである。それは、自らの体験を別の角度から認識し直すことにつながるとともに、互いの見方や感じ方を分かち合うことにもつながる。
 
そのような語り合いが、まちの見方を膨らませてくれる。そんな語りの効果をこの茶話会では大いに学んだ。語ることもまた、建物やまちの価値を見直す機会を提供する愛でる行為となるのだ。
 
写真3:茶話会の様子 (村松伸+京都・岡崎「百人百景」実行委員会編、2013)
 
 

◆ストック型の社会に向けて

 
観る・探す・食す・語る。もちろんこの4つの行為に限らず、さらにたくさんの愛でる術があるだろう。ただ、大切なことは、これらいくつもの行為を組み合わせ、ひとつの建物、ひとつのまちを、多角的に愛でることだといえる。
 
地球環境問題を念頭においたとき、ストックを有効に活用した社会がより強く求められる。 もちろんそれは既存の建物を全て残せばよいという単純な話ではない。適切に使い、適切に壊していくことが肝要である。
 
ただ、その適切さを導くのに、建物の価値を拙速に判断することは禁物である。
 
愛でるとは、ある種、その判断の前の一呼吸のような もの である。いま認識している価値が本当に揺るぎのないものなのか、それを確認する作業である。
 
とことん愛でた先に、次の一手を決する。
 
ストック型の社会に求められる姿勢とは、そのようなものではないだろうか。
 
 
【参考文献】
日本建築学会編(1980)『日本近代建築総覧:各地に遺る明治大正昭和の建物』、技報堂出版
村松伸+京都・岡崎「百人百景」実行委員会編(2013)『「百人百景」京都市岡崎』京都通信社
 
 
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林 憲吾(東京大学生産技術研究所 講師)

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