コラム

    • スカルノ期のジャカルタを巡る その1/全2回

    • 2018年02月06日2018:02:06:06:37:05
      • 林憲吾
        • 東京大学生産技術研究所 講師

◆近代建築ツアー

 
前回のコラムのトピックは建物を愛でる術。観る、探す、食す、語るの4つを例に挙げたが、その観るにおいてジャカルタで近代建築のガイドツアーを実施すると書いた。昨年11月12日に実施したそのツアーの内容を今回は紹介したい。
 
私はいまmASEANa(マセアナ)というプロジェクトに関わっている。mASEANaとはmodern ASEAN architectureの略で東南アジア諸国の近代建築の保全を進めようというものである。
 
これまで十分に注目されてこなかった戦後の建物の歴史的価値に目を向け、様々な人々とその歴史やその活用の仕方を掘り下げていこうというプロジェクトであり、このツアーもそれに関わる。
 
早朝から30名ほどの参加者が集まって、そのツアーは開始した。参加者のほとんどは建築関係者ではない人が占めた。
 
ツアーは現地のNGOにあたるsahabat museum(サハバットミュージアム)とPusat Dokumentasi Arsitektur(通称PDA、建築ドキュメンテーションセンター)とともに実施した。
 
今回のターゲットは1950年、60年代の建物や土木構築物、モニュメントなど。すなわち初代大統領スカルノの時代のジャカルタを振り返る旅である。
 
建物のあるそれぞれの場所では、専門家による解説と一緒に、建設当時の写真や地図を大きく引き延ばして印刷し、当時と今を比較しながら建物を見て回った。
 
今回はその時代のジャカルタの建物を紹介しながら、ツアーを振り返ってみたい。
 
写真1:ツアーの様子
 
 図1:ツアーのコース
 
 

◆建築家シラバンとその作品

 

1949年にオランダから独立を果たしたインドネシアでは、初代大統領スカルノのもとで首都改造が進む。
 
1953年から55年には、独立記念塔(通称モナス)、国立モスク、インドネシア中央銀行の3つのコンペが相次いで開催されたが、それらはいずれも新たな国家誕生を象徴する建物である。
 
それらのコンペで頭角を現したのが、インドネシア第一世代の建築家として知られるフリードリッヒ・シラバン(1912-84)である。国立モスクと中央銀行のコンペでは1位を獲得し、設計を手がけた。
 
独立記念塔ではコンペでデザインが決まらず、結果的にスダルソノという別の建築家の手に移るものの、コンペで高い評価を得たシラバンは途中までスカルノからそのデザインを任されていた。
 
50、60年代のジャカルタを振り返る今回のツアーでは、その時期を代表する建築家としてシラバンを取り上げ、シラバン研究の第一人者であるスティアディ・ソパンディ氏の解説とともに、シラバン設計の建物をいくつか巡った。
 
なかでも、参加者を強く魅了したのはイスティクラルモスク(イスティクラルは独立の意)である。東南アジア最大の国立モスクであり、圧倒的なスケールと端正な構成で、力強さと静謐さとを兼ね備えたシラバンの代表作である。
 
1953年に始まったコンペで1位に選ばれたシラバンのデザインは、61年に着工ののち、65年の政変を経て、第二代大統領スハルトのもと78年にようやく完成に至った。
 
壁や窓で内側を完全に閉じてしまうのではなく、ガラス窓の代わりに幾何学模様のスクリーンを用いて、日射を遮蔽しながらも室内に風を取り入れることで、熱帯のモスクにふさわしい開放的な空間になっている。
 
スクリーンなど室内の仕上げに多用されているステンレス鋼は当時西ドイツから輸入したものだという。
 
写真2:イスティクラル・モスク(1955年設計)
 
さらにツアーでは、こうした室内空間を体験しただけでなく、特別にモスクの屋上に上がる機会を得た。屋根にかかる巨大なドームの麓でこのモスクがいかに建設されたか、その経緯を聞いた。
 
ツアー後のアンケートからは、この特別な計らいが参加者たちに強い印象を残したことが伺え、建物を深く知るには、建物との直接的で特別な体験を通した耳学問がおそらく有効となるのだろう。
 
 

◆日本の戦後賠償と近代建築

 

ジャカルタの中央部に建つ独立記念塔。その広場の南西から南へと走るタムリン-スディルマン通りは、スカルノが戦後新たに開通させた目抜き通りである。
 
この通り沿いに、ジャカルタが近代的な都市であることを国際社会にアピールするための建物が1950年代末以降、徐々に立ち上がっていく。
 
そのような建物のいくつかに日本の戦後賠償が絡んでいる。ホテルインドネシア、サリナデパート、ウィスマヌサンタラビルがそれである。いずれもインドネシアにおける初めての高級ホテル、百貨店、超高層ビルとして出現し、日本企業が建設を手がけた。
 
1962年竣工のホテルインドネシアは、デンマーク出身のアメリカ人建築家アベル・ソレンセンによって設計され、大成建設が施工を手がけた。
 
水平ラインを強調したガラス壁面に、連続のかまぼこ屋根を戴くデザインは、当時のモダニズム建築の流行を反映する。政府の要人らが宿泊したこのホテル付随のバーには、デヴィ夫人や日系企業のビジネスマンらが商談に集った。
 
写真3.ホテルインドネシア
 
1966年にオープンしたサリナデパートは大林組の手になる。建物の外観は改修されて当時の面影を残していないが、いまでもデパートとして存在している。
 
近年興隆するショッピングモールと比べるならば、いまや古びたデパートにしか見えないが、インドネシア初のエスカレーターがついたこのデパートは当時の人々を多分に魅了した。
 
このエスカレーターに乗るためだけにデパートにやってきた人もいるくらいで、まさに当時そうしてエスカレーターに乗りにきていた子供が、老齢となってその日ツアーに参加しており、ふとそれを思い出し、皆に語って聞かせてくれたりもした。
 
写真4.サリナデパート
 
一方、ホテルインドネシアの向かいにそびえる100メートル超えの超高層ビル、ウィスマヌサンタラビルは鹿島建設が手がけ、インドネシアはもとより日本にとっても最初の超高層ビルの建設となった。
 
地震国においていかに超高層を安全に建てるか。これまでの研究成果を実際のプロジェクトとして試しうる機会となり、ここでの経験が日本の超高層第一号の霞ヶ関ビル(1968年竣工)に結実する。
 
ただし、1964年、霞ヶ関ビルに1年先行して着工したウィスマヌサンタラビルであったが、65年の政変で建設が中断、結局竣工は72年であり、日本インドネシア両方にとっての第1号にはならなかった。
 
また、このプロジェクトは日イの技術者の交流を生んだ。日本の構造の大家である武藤清(1903-89)のもとにインドネシア人技術者ウィラットマン(1935-2017)は学び、彼はその後、インドネシアで数々の高層建築を担っていくことになる。
 
写真5.ウィスマヌサンタラビル
 
 
 
 
 
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林 憲吾(東京大学生産技術研究所 講師)

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