コラム

    • 大学生は勉強しなくていいので、暇ですよね?

    • 2018年06月05日2018:06:05:05:02:44
      • 森宏一郎
        • 滋賀大学 経済学系 教授

先日、入学したばかりの1年生が研究室にやってきた。表向きの理由は、私のゼミに関心があるので、一度話をしたいということだった。ゼミは3年生から始まる。どう考えても時期尚早である。何か別の理由があるのではないか。私は疑念を抱いていた。
 
渋山栄二君(仮名)は研究室の中を見回し、意味ありげに微笑している。私は直観した。どうやら、どこかで私の噂話を聞いて、何か議論しにきたようだ。「ゼミの話を聞きたいわけではないのだろう?」彼はうなずいた。私は彼に尋ねた。「何をするために大学に来たのですか?」
 
「高校と社会人の間の時間。色々な経験をするために大学に来ました。大学生という身分は信用されやすく便利ですし、今までみたいに勉強しなくてもよいので、時間もあります。」渋山君は静かに答えた。
 
私は言った。「運よくなのか、運悪くなのかは分かりませんが、私のところへ来てしまったのですから、少なくとも2つのことを理解して帰ってもらおうと思います。」
 
 

◆大学教育のコスト

 
「大学で勉強しなくてもよいのですか?」
渋山君は答えた。「単位は取らなければいけないと思いますけど、特に学問をやるとか勉強するとかは別に必要としていないです。」
 
「では、学生にとって大学とは何のためにあるのですか?」渋山君はギョッとした顔になった。「色々経験できれば・・・。」
 
「まず、経済的に計算可能なものだけを考えればよいわけではありませんが、渋山君が4年間大学教育を受けるコストはどれぐらいになるのでしょうか?」渋山君は即答した。「学費は年間60万円ぐらいですから、240万円ですか。」
 
この240万円に、追加的コストとして発生しそうな下宿代・生活費の月額5万円(4年間で240万円)と色々な経験と呼んでいるものをやるためにかかりそうな教育的費用100万円(概算)を加えると、580万円になる。
 
さらに、機会コストを考えなければならない。働いていれば得られたであろう収入もコストになる。仮にフルタイムで仕事をしているとしよう。年収300万円と仮定すれば、4年間で1,200万円となる。上記の直接的な費用と合算すると、1,780万円になる。
 
渋山君はこのことを聞くと、再びギョッとした顔になった。「なんか、まずそうですね・・・。」
「それで、渋山君にとって、大学は何のためにあるのですか?」
 
 

◆詰込み教育の不足

 
ゼミでも授業でも、「皆さんは詰込み教育が不足しています。ですから、しっかり勉強してもらいます。」というメッセージを私は発している。
 
昨今、大学は授業に学生を出席させる努力をしている。このこと自体を否定するつもりはない。しかし、同時に何か中身に関する本質的なメッセージを出さなければ、誤ったシグナルになるのではないかと危惧している。
 
学生はまじめに授業に出席していれば必要十分な勉強ができていると勘違いしているように見えるからである。というのは、授業で取り扱った内容に関する文献を読んでいる学生はほとんどいないのが現状である。学生も読む必要などないと考えているようである。
 
たとえば、授業で取り扱わなかった内容を期末試験問題に含めたら、学生はどんな反応になるだろうか。学生は大いに不満を呈し、大問題になるかもしれない。ただし、その内容は、授業に関連する事項で、授業で示した参考文献では議論されているものである。
 
授業出席を促すことは、授業内ですべての知識や議論が完結していることを意味しない。授業はガイドに過ぎず、よく分からない「モヤモヤ感」を残した空間を提供するところだと思う。それをヒントに関連文献を読んだり、思考実験をしたりといった「きつい詰込み勉強」が必要である。
 
そのため、授業の使命は完全性のようなものを示すことではなく、モヤモヤ感を残すことである。現在教育界ではアクティブ・ラーニングというバズワードがあるが、モヤモヤ感を出すことがアクティブ・ラーニングなのではないか。
 
永田和宏氏は授業の最後に「今日の授業には嘘が含まれています。どこが嘘なのかを考えてくることが宿題です。」と言うらしい(注1)。これはすごい技である。究極のモヤモヤではないか。すぐに分かるような誤りや嘘を仕込んでいるわけがないだろうから、深く勉強せざるを得ない。
 
そもそも専門領域を学ぶとか、専門性を身につけるとか言う時に、90分×15回の授業で十分なわけがない。私の留学先大学では、もともと授業シラバスの中に、必要学習時間として、授業時間等に加えて、自学自習が100時間近く明確に設定されていた。
 
したがって、仮に授業で教えてもらったことを100%再現できたとしても、ギリギリ合格の評価しか得られないと説明されていた。100%再現はきわめて難しいので、学生は授業間のようなスキマ時間でも文献を読む時間に充てることになる。そうしないと合格しないからである。
 
そのプロセスを通じて、学生は専門領域において思考力・実践的問題解決力を身につけていくことになる。そこでは、正解を探すのではなく(そもそも決まった答えや模範解答が存在しない問題を扱っている)、どれだけオリジナルの思考や付加価値をつけられるかが問われる。
 
どういう経緯で、授業への出席が強く求められるようになったのかは分からない。おそらく、勉強もしないし授業にも来ないのではどうしようもないので、せめて授業には出席させようということなのではないか。
 
 

◆20年前と変わらず非決定論的世界観で生きる

 
「大学とは、学問・勉強をやるところである。」渋山君は「えっ」と表情を歪めた。なぜ、こうしたタフな勉強が必要になるのだろうか。その理由は非決定論的世界観で生きなければならないからである(注2,注3)。
 
非決定論的世界観とは、「社会における問題には唯一の正しい答えは存在しないし、また、そうした正しい答えを求めようともしない世界観」である。この世界観では、個人の自由意志、構想力、創造性によって社会は変わっていくという思考フレームを持つことが可能となる。
 
唯一の正しい答えとの答え合わせをしているのは入学試験のようないわゆる試験ぐらいである。現実社会では、模範解答や正解が存在しない問題に対する答えをつくる前に、問題自体の明確な設定も求められる。
 
このような曖昧模糊とした現実社会で個人がアウトプットを出していくためには、非決定論的世界観に基づいて勉強することが第一に必要になる。その場合、すぐにそのまま役に立つ知識を求めて授業に出たり、勉強せずに「大学での勉強は役に立たない」と断罪したりしないはずである。
 
答えも問題も分からない実社会で、個人がおもしろく仕事をして、少しでも社会を良い方向へ改善したり、付加価値を生み出したりしていくための準備を考えるならば、大学では勉強・学問をやることを勧めたい。「非決定論的世界観で学問・勉強するところが大学なのではないか。」
 
 

◆おわりに

 
「知識を増やすことは重要ですが、知識が増えれば十分なのですか?」渋山君は答える。「知識が増えれば、それでよいと思うのですが・・・。」
 
「たとえば、将棋のプロ棋士は知的集団の一つですが、彼らは勉強して多くの既存知識を獲得する競争をしているのですか?」渋山君は不思議そうな顔をする。「違うのですか?」
 
プロ棋士になっている時点で、既存知識の獲得量は相当なもののはずである。彼らは既存知識獲得競争をしているわけではない。それをベースにして(既存知識は必要!)、自ら問題を設定して、それに対して答えをつくりながら(新しい知識を創造しながら)競争しているのである。
 
非決定論的世界観に立つと、猛烈に勉強せざるを得ない。「大学は学問・勉強をやるところである。」説明する必要がないような当たり前のことが学生の間で共有されていないのが大問題である。専門学校から来た編入学生が一言。「大学生は勉強しなくていいので、暇ですよね?」
 
 
*-*-*-*-*
注1.永田和宏(2018)『知の体力』新潮新書.
注2.沼上幹(1994)「卒業式を「自由な人生」の葬式だと思っている学生諸君へ」金井壽宏・沼上幹・米倉誠一郎(編集)『創造するミドル-生き方とキャリアを考えるつづけるために』有斐閣.
注3.楠木建(1995)「大学での知的トレーニング : アタマがナマっている人へのメッセージ」『一橋論叢』113(4): 399–419.
 
 
---
森 宏一郎(滋賀大学 経済学系 教授)

コラムニスト一覧
月別アーカイブ