コラム

    • 100個のビー玉

    • 2018年12月11日2018:12:11:06:02:45
      • 河原ノリエ
        • 東京大学大学院情報学環・学際情報学府 特任講師

昨年、自分への誕生日プレゼントとしてビー玉を100個買った。二つの皿に分けて、右は、これまでの歳の数。そして左は100個のうちのその残り。
 
 
人生100年時代と言われて久しいけれど、自分に引き寄せて考えてみるとその実感はないが、こうやって、その数を並べてみると、なんだかとても現実的だ。この100個のビー玉を寝室の枕もとにおいている。
 
今年も誕生日に、右からひとつ取り上げ、左にそっと移した。ビー玉を光にかざし、その光の粒をみつめていると、悠久の海の底にいるような気がする。アマゾンで買った、安物のビー玉だが、混濁した光の粒がなかなか味わいがある。
 
もちろん、人生はわからないことばかり、いま、メルボルンからの帰路でこれを書いているが、この飛行機が100パーセント日本に戻るという保証はなく、次の瞬間私の運命がどうなっているかなど、神のみぞ知ること。
 
100個分生きる保証なんてないじゃない。そういわれてしまいそうだが、それでも私は、このビー玉セットを友人たちの誕生日におくってしまう。
 
次の誕生日に、そのひとつを眺めすかしながらそっと移し替える瞬間、自分の来し方、行く末を考える。
 
子供のころ、それは遠い昭和の日々だけど、人生は永遠で、悠久の流れのなかにあるという気分がなんとなくあった。
 
盆暮れ、法事、いのちの繋がりのあるひとたちが、久しぶりに集まると、それぞれの姿かたちのうつろいに、過去の誰かの面影を引き寄せ、永遠のいのちの流れの証を探し出そうとする。
 
ミンミンゼミの声に、田舎の年老いた住職のか細い読経がかき消されそうになる夏の昼下がり、3代前のおじいさんの風貌を伝え聞いた老婆が、昔話を手繰り寄せながら、目の前にいるこどもの姿のなかにそれを見つけて、あなたはこの家のじいさんの生まれ変わりだと真剣に諭していたことをふと思い出した。
 
いのちが、100年たっても、つながり、開かれていた。
 
100個のビー玉の数を手繰り寄せながら、おもうのだ。
 
いつからわたしたちは、こうやって、自分ひとりの完結したいのちを考えなくてなくてはいけなくなったのだろう。いまの時代、こどもがいてもいなくても、なんだか、いのちはそのひとのなかだけでおわるかんじがする。血のつながりだけではない。
 
遠い日々には、いろんなつながり、なにもいのちだけではなく、山や川や田んぼやミンミンゼミが、寄る辺ないひとのいのちをみまもっていていてくれていたのだけれど。
 
お誕生日プレゼントであげた友達から、「100個移し替える前に死んじゃったら、このビー玉どうするの?」
 
そういわれた、私は「のこりは、最後まで生き延びたひとのとこに集めておこう」なんて、いってしまったけれど、そう、100個のビー玉は、寄る辺ないいのちの繋がりを、どこかにつないでくれる気がする。
 
だから、わたしは、こんどは誰に、この誕生日プレゼントをあげようかと、パリ土産のきれいなチョコレートの空き箱に100個ビー玉を詰めて、その出番を心ひそかに待ちわびている。
 
 
 
---
河原ノリエ(東京大学大学院情報学環・学際情報学府 特任講師)

コラムニスト一覧
月別アーカイブ