コラム

    • 人と情報のエコシステム:テクノロジーは私を救ってくれるのか?

    • 2019年09月10日2019:09:10:06:18:19
      • 河原ノリエ
        • 東京大学大学院情報学環・学際情報学府 特任講師

げた箱からポン酢が出てくる!(最近はげた箱なんていわず、シューズボックスというらしい)、ごみの収集日が覚えられない、ベビーカーごとデパートに子供を忘れてくる。
 
思い返せば、これまでの人生で、日常生活は苦難の連続だった。いわゆる注意欠陥多動性障害ADHDと分類されるのだとおもう。40歳まで家事の全くできない専業主婦だった。21世紀になった瞬間、娘に、「お受験ママしかできないなんてちょっとカッコわるくない?」といわれ、どうしたらいい?と聞く母に、とりあえず、PCぐらい触れる人になってみればという娘の言葉に、渋谷に買いに走った一台が人生を切り拓いてくれた。
 
2001年当時まだ、非力な家庭用インターネット回線だったが、時折切断されながらも世界中の情報を、家庭で蹲(うずくま)る主婦に瞬時に運んでくれる。米国政府の公開文書、大英博物館の収蔵品、日本国政府の会議議事録、一度も社会に出たこともない専業主婦がアクセスできることすら知らなかった世界が、一台のPCから、開かれていった。
 
これまで、手書きの汚い文字しかかけず混沌としていた弱いアタマは、デジタルの即応性によって、フレームが与えられ、情動のレベルでボンヤリとしていたことが突然するすると概念として表出し始める。それまで、いわゆる、学習障害もあったのだとおもう。ITは、世界中のあらゆる特性をもった人間の生活を一変させる力があったのだ。
 
そしてこの瞬時に地球の裏側まで繋がるデジタル技術の脅威の実力は、「私のカラダの情報は誰のものなのか?」という私が追いかけるべきテーマを浮かび上がらせてくれた。医療情報は、デジタルとの親和性が高いにもかかわらず、セキュリティーレベルも規制もバラバラだというくらいの知識は、家に毎朝届く、読売新聞を、すみからすみまで読む暇な主婦生活で身に着けていたのは幸いした。
 
デジタル時代を見越して出した、その翌年の2002年の Nature Correspondence における人体情報の保護と利活用への提言を出発点にして、人間存在とその生体データの社会における共有の仕組みを仲間を募って論じはじめた。
 
その後活動を、一般社団法人アジアがんフォーラムとしてたちあげた。
 
がんの臨床情報と疫学情報という軸を中心とはしつつ、フォーラムを通じて共有される情報をもとに方向性を見つけようとする活動をおこない、現在の東京大学赤座英之研究室における研究につながっていく。しかしその中でも既存医療が、医療機関内の取得情報に特に依拠していることに疑問をもち、ひとびとの日常の暮らしの営みのなかの情報収集はどうすればいいのかがずっと続く課題であった。
 
中国農村ハルビンでのJICA活動はスキームとひとの身体の情報を集めていく機微を教えてくれた。ひとはこころをゆるす空間でしか、本当のことを話さない。私は最近、故郷富山の砺波市庄川町で、ケアの主軸が在宅地域に移ることを視野にいれたペーシェントエンゲージメントのコアになるような場所を作り始めている。
 
ひとはがんだけを病むのではなく、さまざまな問題を抱えながらやむものだ。情報のエコシステムという言葉はよく使われ始めているが、しくみだけをつくっても、ひとの暮らしに寄り添うことができなければ、情報など集まらない。その中で出会った患者さんから、私のもう一つの軸である発達障害課題への取り組みのお願いをされた。どの地域でも悩みは同じだ。
 
いまも時折、かつて出した3冊の本の読者だという方がたからのお問い合わせが時折ある。久しくこの領域に関わっていないあいだに、問題のありようが社会構造の変容とともに、深刻さを増し、なおかつ、自分や家族の問題として大きな課題となっており、どう言葉を紡ぐべき課題か考えあぐねていた。
 
 
 
 
 
この春、私はひとりの青年と出会った。ホロアッシュ代表の岸慶紀くんだ。
 
お互い、ADHD気質のつらさを話しながら、二人とも共有したのは、既存のカウンセリング空間への疑義だった。カウンセリングが有効な場合もあるだろうが、それが引き金となり悪化することも私にはあった。また医療機関に果たして本当に適切な患者の日常の情報が集積されているのかというのが、私たちの疑問であった。ADHDなどの発達障害は、ある意味社会的疾患であり昔からクラスメートのなかにもたくさんいたはず。
 
私はお勉強はできたが、お道具箱のなかは片づけられず手先が極端に不器用、ランドセルを玄関に忘れて登校したこともある変な子だった。お勉強ができたというこの一点で、見落とされた自分の課題はいまにして思うといまの暮らしの困難さに繋がっている。
 
現代社会において情報量が増え様々な事柄が瞬時に最適化される状況で、環境変化に適応しにくいある一定の認知行動パターンをもった人間が疎外されやすい状況になってしまっている。それゆえ、増えているとおもわれるのだろうが、昔から潜在的にたくさんいたはずである。
 
昨今の診断があまりにも安易について薬物治療に走ることへの危惧は、「ややこしい子とともにいきる」岩波ブックレットでも触れたが、しかし、どうにも出口のみえない親子にとって救いがほしいことは事実だ。
 
米国ではデジタル医薬品・医療機器(software)の臨床開発に関するPre-certification programがFDAからでたことも追い風となり、発達障害治療にIT関連アプリを活かそうという試みが進んでいる。日本においても、大手製薬がADHDアプリなどで治験を検討しているというニュースも出てきている。
 
他にもADHDなど発達障害治療を目的としたゲームアプリの開発はすすんでいるといわれ、今後日本国内での保険償還も視野にいれたデジタル医薬品・医療機器の研究開発は進むとされている。私は、こうした動きは、今後医薬品の概念自体も変えていくひとつの契機になるのではと考えている。
 
その一方、最近ではゲーム依存症がWHOの疾病分類のなかで正式にいちづけられ、様々な規制がすすんでいくことが予想される状況だ。今後、こうした社会課題は議論が展開されるであろうが、ここで、いまいちど、デジタルネイティブとよばれる新しい世代の子供たちとその成育環境のなか少し丁寧な議論をすべではないかずっと考えていた。
 
そんななか、研究会で一般社団法人超人スポーツ協会のディレクターの安藤良一さんと知り合った。
 
発達障害支援機器の開発をあえて、ゲームと呼ばず、スポーツという概念の枠組みで議論のプラットフォームができないか? 私の唐突ともいえる呼びかけに対して、AIによるコミュニケーションツールを実装した「スポーツ」を創造するという目標ですねと、即座に切りかえしてくださった。
 
一般社団法人超人スポーツ協会において、それが「超人スポーツである」という認定を目指す過程において、スポーツという古来あるルールと人間の行動の相関を深く詳察することになり、人間の思考・価値観・身体的能力との調和性などの本質的理解が進むのではないかというのが、我々の読みだ。人間の身体・思考の拡張技術のうち最重要なものとしてAIを活用したコミュニケーションツールを創造し、課題への応答をはかっていくスキームを構築することこそが、新しい人と情報のエコシステムを創造するためのプラットフォームとなりはしないか。
 
昨今のAIブームは、AIをビックデータや機械学習のデータ処理の次元と誤解している社会風潮もあるが、この技術は人間のこれまでの認知構造を超える構造をもっており、発達系の変数の多い複雑系の状況把握に適している。途中から議論に加わっていただいた大阪大学三宅淳教授も、「AIは情報社会の過渡期ゆえに社会適応しにくい性質をもった一定数の人々の認知処理の部分の身体・思考能力を拡張しうる」と述べておられた。
 
実はこうした問題を国を超えて議論をしなければと考えていた矢先、JST・RITEXの日英共同プログラム「人と情報のエコシステム」の研究課題が出てくることに気が付いた。ケンブリッジ大学のAI言語処理の第一人者であるAnna Korhonen教授と「発達障害を解消する社会エコシステムの構築」という申請を出せないかと試みたが、ケンブリッジ大学の学内申請と日本側のスケジュールがあわず断念してしまった経緯がある。しかしながらこの課題は、AI時代、人間を根源から問い直すという、まさに情報技術と人間がどう向き合っていくべきかというテーマであり、引き続き議論を続けていくつもりだ。
 
かつて、私は「恋するように子育てしよう」の本をかき、ADHDの子育てに悩むおかあさんたちに、「私たちは人類のひとつの進化系、かならず生きていきやすい未来をつくる智慧がどこかにあるはず」そう伝えていた。
 
「かつてないほど、高度のテクノロジーを日々活用している私たち、過去の世代に比べ世界を変える力をより多くもっているはず。先行世代ができなかった多くのことをできるようになっており、未来を切り拓く力も十分もっている」
 
これは、世界的ベストセラーとなった「プラットフォームの経済学」の結びの言葉だが、ひとがまわりとの安心感をもちながら、他者と繋がっていける世界を創り出す力は、テクノロジーにあるのではないかと信じている。
 
 
 
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河原ノリエ(東京大学大学院情報学環・学際情報学府 特任講師)

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