コラム

    • 砂漠の知恵比べ

    • 2020年03月31日2020:03:31:17:50:51
      • 林憲吾
        • 東京大学生産技術研究所 講師

◆教訓

 
ここ数年、新年を迎えると、アラビア半島のオマーンに1週間ほど調査に出かける生活を送っている。このコラムでもこれまで何度か紹介させてもらったように、当地で伝統家屋の保全に関わっているためである。
 
例年よりやや遅めの2月初旬となったが、今年もやはり同僚の研究者たちと当地を訪れた。なので、今回のコラムもこのオマーンの旅を題材にしたい。ただし、保全プロジェクトの内容というよりも、その道程で遭遇した、ちょっとしたアクシデントを取り上げる。
 
そのアクシデントというのは、ひとえに次の教えを破ってしまったことによる。すなわち、
 
「平地で止まるべからず」
 
予兆
オマーンはわれわれの住む日本と違って雨の少ない乾燥地である。熱しやすく冷めやすい寒暖差の大きな気候が特徴で、4月から10月頃までの夏季には最高気温が40度を超えることもざらにある。数字を見るだけで怖気付いてしまうこの殺人的な暑さを避けて、日本の初夏に近い、清々しい1月、2月を狙って足を運んでいる、ということもわれわれにはある。
 
もう一つの特徴は砂漠である。少雨の国土は約8割が砂漠にあたる。街から1、2時間ほど車を走らせれば、広大で荒涼な乾いた大地が眼前に広がる。
 
かつてはもっぱらアラブの遊牧民ベドウィンの生活地であった砂漠は、いまでは現代人の娯楽の場でもある。冒険心溢れる観光客の心をくすぐるのは「砂漠でキャンプ」のサービスだし、隣国のUAEでは「砂漠でBBQ」が週末の余暇を埋める楽しみのひとつになっている。
 
かくいう私も、昨年ドバイの知人を訪ねたときに砂漠でBBQに連れて行ってもらった。砂漠は、異世界に足を踏み入れたような、なんとも不思議な感覚に包まれる。全方位砂漠に囲まれた中でゆっくりと迎える日暮れには、唯々私たちだけがこの世界にいるような、”満たされた孤独”とでもいえばいいだろうか、そんな崇高さがある。
 
さらにいえば、そもそもお目当の場所に向かう道中からしていい。砂漠に車で突入していくオフロードの緊迫感はアドレナリンを掻き立ててやまない。
 
「車を自在に操り、砂漠を颯爽と滑走してみたい!」
 
免許すら持たない私でもそんな欲望に駆られたくらいだ。
 
【写真1】ドバイの砂漠
 
幾分か、砂漠でBBQの話に熱が入ってしまった。オマーンのアクシデントはどこにいったと叱られそうだ。だが、冒頭の教えこそ、実はこのBBQで得たものなのだ。
 
砂漠を駆け抜け、お目当の場所に到着すると、なぜか知人は砂丘の傾斜地に車を停めた。その理由を尋ねたときの回答が「平地で止まるべからず」だったからだ。どういうことか。
 
砂丘は摩擦力が小さい。だからタイヤのグリップが効きづらく、タイヤは空転しやすい。そして、この空転しやすさが最も障壁になるのが発進時である。
 
ご存知のように、止まっているものを動かして加速させるには大きな力がいる。そのため、駐車して長時間BBQを楽しんだはいいが、いざ帰ろうとアクセルを踏み込んだら、砂に埋もれたタイヤが空回り。発進できずに顔面蒼白。なんてことが砂漠初心者にはしばしば起こるらしい。
 
つまり傾斜地への停車はそれを回避するための工夫である。車体の自重で下方に動き出しやすくしておく、現代版の砂漠の民の知恵なのだ。
 
ただこの時は、この教えの意味をオマーンで痛感することになるとは思いもしなかったのだが。
 
 

◆危機

 
それは、砂漠、ではなく、海岸沿いの砂浜を訪れたときだった。その日私たちは古老の石工に聞き取りをしながら、伝統家屋に使われていた昔の建材の在り処を探していたのだが、古老とその甥に連れられて向かったのがその浜辺だった。
 
土地勘のある彼らは軽快に車を飛ばし、あっという間に私たちは置いてかれてしまう。遥か先を走行する車体を必死に追いかけて、ようやく浜辺で追いついたときには、その古老はひとり車を降りて、また遙か前方をスタスタと歩いているではないか。
 
私たちを待っていた甥は、運転する同僚のMさんに、古老の方を指差しながら、もう少し近くまで車を走らせろという。
 
言われるがまま車を前に進めると、道は徐々に深めの砂浜になり、しかも目印にしていた車の轍が、なんと、二手に分かれた。
 
「え、どっち!?」
 
と、躊躇ったが最後だった。ピタッと平地で止まってしまった。アクセルを踏む。案の定、空転だ。顔面蒼白。
 
だが、恐ることはない。私たちには砂漠の民がいるではないか。後方にいた甥は立ち往生する私たちに気付き、すかさず助けに来てくれた。スタックを回避する知恵を蓄えているのが彼らなら、スタックの経験もまた豊富である。任せとけ、とばかりに笑顔で運転を変わる。けれども、いやはや、空転は変わらない。
 
そこで彼は車を降りると、今度は後輪を埋める砂を両手で激しく掻き出した後、何やらタイヤを弄りだした。不思議に思って覗き込むと、どうもタイヤの空気を抜いている。一瞬えっ、と訝ったが、ググってみると確かにこれは鉄則らしい。摩擦力が高まるようだ。しばらくして彼は運転席に戻る。アクセルを踏む。だが、やはり、空転。
 
【写真2】空気を抜いてグリップを高める
 
やや不穏な空気が漂ってきた。彼は再び砂を掻き、空気を抜く。これは私たちもただ傍観しているわけにはいかない。何か知恵を出さねば。
 
と、ここで地盤工学を専門とするOさんから一言。「水をかけるだけでも違うと思いますよ」
 
ほう。さすが土質の専門家らしい視点。水が希少な砂漠の民にはきっと浮かばない発想に違いない。
 
生憎、海まではまだ遠い。だが幸い、車には買い溜めたミネラルウォーターがある。試しにそれを撒いてみる。「はっ?」という表情を浮かべ、砂漠の民は横目で笑っている。まあ、よいではないか。車に戻る。アクセルを踏む。でも、しかし、空転。うーむ。
 
すると今度は木造の専門家K先生が、「やっぱり板やろう」と、近くに落ちていた板を見つけてきた。さすが、木の民。けれども、それも片輪分しかない。弱った。
 
と、そこに遂に救世主。ひとり建材を探していた古老の石工が、痺れを切らしてわれわれの方へ戻ってくるではないか。夕日を背負ってゆっくりと近づいてくるその手には、なんと石。さすが石の民。
 
いやいや、それもそのはず。それを探していたのだから。だが、それは研究用の大事なサンプル。さすがにタイヤに噛ませるわけにはいかない。
 
それでも古老は古老だ。経験の蓄積が違う。状況を察するや否や、周りから適当な石を集め、さらに僅かばかりに生えている低木から草木を刈り、タイヤの周りに敷き詰めた。
 
いまやタイヤ周りは色んな知恵の混合だ。あとはもう、われわれにできることは車体を皆んなで押すことくらいだ。アクセルを踏み、一斉に車体を押す。
 
すると、どうか。遂にゆっくりと車体は進み、脱出に成功。歓喜の声があがる。よかった、よかった。ほっと一息。
 
だけど、これでは遠く離れたまちには帰れない。なぜならタイヤの空気が足りてない。そこで近くのガソリンスタンドに立ち寄って、空気満タン。これにて、めでたし、めでたし。古老に別れを告げ、無事にホテルに帰還できた。
 
【写真3】兵どもの知恵の跡
 
 

◆好機

 
三人よれば文殊の知恵とよくいうが、それぞれ特異な専門知を持つ非凡な人が集まれば、こうもアプローチの違うハイブリッドな解法が生まれるものかと、アクシデントとはいえ、楽しい時間だった。
 
異文化が触れ合う瞬間はきっとこういう感覚に違いない。大航海時代にヨーロッパの人々がこの地に来た時も、こんな風に笑いあえる知恵の交換があったのかもしれない。
 
ただ、ハイブリッドな解法、あるいはもっと大胆にいえばイノベーションのようなものが生まれるには、共通の危機が必要だとも感じた。互いに、あーでもない、こーでもないと同じテーブルで試行錯誤すること、解法を一方的に決めてしまわないこと。それを可能にするには、何か強い連帯が大事なのではないか。
 
その意味では現代は好機だといえる。世界の人々が同じ危機について思いを馳せる、という点では人類史を振り返っても現代に勝るものはきっとないからだ。その象徴が地球環境問題である。
 
しかし、その好機をいかすには、多様な知恵を排除せずに、粘り強く不可思議なことも引き受けながらコミュニケーションする必要があるのだろう。その交流の先にこそ、新しい知恵がもしかしたら生まれる。空転するタイヤにそんな希望をみた。
 
ところで、アクシデントの最中、非力な私はそれこそ傍観の民であった。車体すら押すことはなかった。
 
確かにそうだ。いや、確かにそうなのだが、それだけ書くと非難轟々だ。正確にはこの状況を記録しようとカメラを回し続けていたのである。
 
まさに銃で撃たれんとする兵士を前に、シャッターを切るのか、助けるのか。そんな戦場カメラマンのようなジレンマを抱えながら、私とてカメラを回していたのである。記録がなければこの悲喜劇が後生に伝わらないではないか。
 
何よりも記録を重視する私は、やはりつくづく歴史の民だった。と、でもいえば、許してもらえるだろうか。
 
 
 
---
林憲吾(東京大学生産技術研究所 講師)

コラムニスト一覧
月別アーカイブ