コラム

    • 限界利益という衝撃:大学病院と日本の研究環境

    • 2020年06月09日2020:06:09:09:35:42
      • 細谷辰之
        • 日本医師会総合政策研究機構 主席研究員

◆限界利益という衝撃

 
限界利益という言葉がM大学病院内の会議に持ち出されたときは、衝撃が走るどころではなかった。
 
まったくなんのインパクトもなかった。そんな言葉聞いたことすらない人が、ほぼ全員だった。しかし、その中身と、なぜそれが持ち出されたかを聞いたときは、ほぼ全員に今度は衝撃が走った。
 
今を去ること10数年、あのころすべての国立大学はきたる独立行政法人化のためにてんやわんやであった。
 
限界利益という考え方を病院の経営指標に持ち込むことによって何が得られたか、そして何を失ったか。それはそれで、仔細な検討を要する。しかし少なくとも、現在脈々と流れている、不採算部門、利益率、稼ぎ頭、経済合理性、といったことばに踊らされがちな文化は、あのころ発生した。
 
限界利益という考え方を導入することなり、さらにはそれに応じた人事配分の見直しを進める、という方向にまで行きかけた。そのとき、僕らが感じたのは違和感。この大学病院は、何の為に存在してきたのか、存在しているのか。
 
 

◆経営の最適化と組織の存置目的

 
経営の最適化は、その経営母体の存置目的をいかに合理的(少ない資源投下で)に実現するかであって、一定の金を如何に合理的にもうけるかではない。
 
民間企業は金をもうけるために存在するのだから、舌も出さずに儲けを最大にするでもよい。それでは短期的にはもうかっても、長期的な信用が築けなかったり、人材が得られなかったり、将来困難に直面する可能性が高くなるかもしれない。そこは経営判断である。
 
しかし病院の存置目的は金をもうけるではなく、特に大学病院であれば、診療、研究、教育の三種目で最大効用をもとめることである。
 
 

◆ことの顛末(1):M大学病院

 
結局、限界利益という考え方を導入するという大学病院の改革メニューに、それに基づく人事の傾斜配分という犯罪的愚作は盛り込まれずに済んだ。
 
それは当時のM大学医学部教授会の面々が賢明で勇敢だったからではない。(懸命ではあった、有閑なひともいた。)
 
「○○科は経費がかからず、手術数も多い、△△科は手術も多く稼ぎも大きいが、経費がかかりすぎる。ゆえに△△科から○○科に数名移しましょう」という話にはならないからである。
 
これを行うにはいろいろ障害があるが、もっとも大きいのは、消化器外科医に、今度は呼吸器内科に行きなさいとはいえないことである。
 
困っているときに、別の世界と見えるところから、聞いたことも無い知恵がきて救いになる。という幻想に身をゆだねたくなる気持ちはわかる。
 
 

◆ことの顛末(2):日本の研究環境

 
もっとも権威ある学術データベースの一つであるエルゼビア社によると、日本で書かれている論文数は、2004年の国立大学法人化の翌年2005年から増加が鈍化し、2007年からは減少に転じている。
 
ほとんどの主要国では論文数は右肩上がりに増加している中で、である。他のデータベースによると、国立大学の教官数と政府支出の科学研究費の削減の始まった2000年に、日本の凋落傾向が始まったことが見て取れる。
 
このあたりの事情は、鈴鹿国際医療大学の豊田長康先生が、前職、独立行政法人国立大学財務・経営センター理事長のときに公開された調査結果に詳しい。
 
また近年、定年がだいぶ先の「若い」教授の退職が目立つようになったといわれている。アメリカや欧州、アジアの大学への流出である。採用が基本的に5年の任期付きの教官がほとんどになったこと(弟子の育成ができなくなる、しづらくなる)、また、政府支出の科学研究費削減で民間等から競争的研究資金を獲得するよう促されたことも、影響しているといわれている。
 
すぐ回収できる見込みの無い基礎科学に資金を投入する企業は少ない。競争的研究資金の獲得による研究環境の整備、とは聞こえがいいが、研究者が研究する時間をたくさん削って金集めに奔走するということにほかならない。
 
病院のミッションが金をもうけることでないのと同じように、大学の研究室も資本主義の経営ごっこでハイスコアを出すことではないのである。
 
もちろん、「金」のことを無視してよいというつもりは無い。どこかで帳尻を合わせなければ、医療も研究も長く続けることはできない。ただ、なにが出さなければならないアウトカムかという問いは、無視できない。
 
大学の経営改革という修羅場に持ち込まれた「民間的手法」とか「競争」という言葉。
 
その結果、大学に投下する国の支出はどれくらい減ったのであろう。そして、いったい私たちは何を得て、何を失ったのか。真摯に検証する必要がある。
 
 
 
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細谷辰之(日医総研 主席研究員)

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