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コラム
金野充博 今週のテーマ
「スカルペルの筆」阿部重夫
(掲載日 2005.2.15)
 かねてから「崇め」ている雑誌がある。「ニューヨーカー」である。アールデコ風のタイトル・ロゴといい、ソール・スタインバーグの表紙イラストといい、内心ひそかに目標としている雑誌のひとつである。クオリティペーパー(高級誌)として英国の「エコノミスト」を褒める人は珍しくないが、志の高さでは「ニューヨーカー」のほうが上だろう。日本の出版界の志の低さを見るにつけ、この妥協のない質には感嘆するほかない。

 一冊の記事すべてはとても読み通せないけれど、アメリカに渡るたび、機内でこの雑誌をひらき、数本のコラムをななめ読みしては、いつもため息をつく。歯ぎしりしたくなるほど、スタイリッシュな文章。でも、正確で皮肉がきいて贅肉がない。しかも小説や詩、エッセー、批評といった文芸作品ばかりではない。ときどきはっとするルポルタージュもあって、ジャーナリズム精神も旺盛なのだ。

  数年前、一読忘れがたい文章に出会った。奇妙な名の筆者だったから、なんとなく頭の片隅に残った。アタル・ガワンデ。どうやらインド系アメリカ人らしい。彼はボストンの病院に勤める若い外科の実習医で、執刀のかたわら「ニューヨーカー」の嘱託記者となって、手術室で医者が何を迷い、何に悩み、何に挑んでいるかを書いている。

■医療現場の矛盾を暴く

  その文体に驚いた。ほとんどメスのように現実を切り裂く。いや、コトバそのものをメスのようにふるえる書き手なのだ。いつのまにか、読者も手術に立会い、人体というリアリティを開腹して止血や縫合を手伝わされる。その生々しさは誰とも比べようがない。「タイム」誌が評したように、「スカルペル(メス)の筆とX線の目」を持っているのだ。

 もちろん、ときおり医学用語はまじるが、「骨単」や「肉単」で医学生が悪戦苦闘するような難解なギリシャ語、ラテン語の乱舞はない。専門用語は極力省かれ、そのかわり医師を理想化したり悪党にしたりの「絵空事」、お涙ちょうだいの難病物、功なり名を遂げた医師の暇つぶしの自慢話もきれいに排除されている。それでも、いや、そうであるがゆえに、世界一厳しい「ニューヨーカー」の編集者のお眼鏡にかなったのだろう。

 さすが、と拍手を送りたくなるが、よく考えてみれば、こういう研ぎ澄まされた感覚は諸刃の剣である。彼は医療の現場に潜む矛盾を仮借なく暴いてあますところがない。プライバシーに配慮して患者の名は変えても、自分も含めた医師のミスなどの記述はすべて実話だと言い切る。あの裁判乱発の国で、これは驚くべき率直さだ。

  「大衆の多くにとって――法律家やメディアにとってはなおさら、医療ミスは根本的には下手な医者の問題である。医療において症状を悪くする経緯は通常見えない。結果としてしばしば誤解される。ミスは起こりうる。われわれはそれを異常と考えがちだ。しかし少しも異常なことではない」

 筆はそこから一転して、金曜午前二時の手術室に移る。喧嘩で刺された少年の手術中、彼のポケベルが鳴る。表示は「コード外傷、三分」。救急車で別の外傷患者が三分以内にかつぎこまれるという連絡だ。少年の手術は当直医に任せて、ガワンデだけ救急病棟に応援に向かう。酔っ払い運転で事故を起こし意識不明の女だった。呼吸機能が低下している。

 別の医師が声帯にチューブを差し込もうとするが、つかえてうまくいかない。酸素マスクを外すと、酸素量が危険水域まで低下してしまう。何度試みてもチューブを挿入できない。出血か何かで気管がふさがりかけているのではないか。ガワンデは気管開口術(Tracheostomy)を考えたが躊躇する。彼には十分な経験がなかった。

 「こいつ、実は簡単なのさ、と自分に言い聞かせようとした。甲状軟骨、いわゆる喉ぼとけの基底に、ちいさな裂け目がある。そこに輪状甲状組織と呼ばれる薄い繊維質の膜がある。それを切り開くんだ――ようし! 気管に突きあたる」

■告げられなかった「失敗」

  が、そうは問屋がおろさない。手で探ったが、脂肪層に遮られて甲状軟骨がみつからない。「どこを切開すべきなんだ? 縦に切るのか、横に切るのか――自分を呪った。外科医は迷っちゃいけない。が、私は迷っていた。『もっと明るくないと』」。頼んでいた応援の医師はまだこない。もうぐずぐずできなかった。四分以上、脳に酸素が補給できなかったら、取り返しのつかない損傷が起きる。思い切って水平に切った。静脈を傷つけて血があふれた。「サクション(吸入)!」。血の塊がつかえて吸入できない。「チューブを入れ替えろ」。もういちど切開を試みる。血があふれ、手元が暗いなか、今度こそ……。

 やっと応援の医師が来た。あまりの混乱に唖然とする。「呼吸が停止してから何分だ?」。「わかりません。三分ぐらいかと」。もう一分もない。心拍が間遠になっていく。切開し直す時間はなく、応援の医師は「もういちど声帯からチューブ差し込め」と命じた。奇跡のようにチューブが通る。危機を脱した。そのあとで気管切開を行い、駆けつけた家族にはガワンデの切開失敗など一言も告げられなかった。

 これが医の実態なのだ。彼が勤務する病院の外科部長には原稿を事前に読ませた。「ニューヨーカー」に掲載する許可を求めたのだが、不許可もありうると身構えるガワンデに、数日してから部長は言った。気に入らんがね(don’t love it)。が、結論はOK。世間やほかの医師から反発を招きかねないが、ごたごたが起きたら手を貸すよ……。

  この鷹揚には驚くほかない。幸い、ごたごたは起きなかった。「ニューヨーカー」がこういう筆者とその周辺に支えられているのだとしたら、うらやましい限りである。ガワンデは掲載したこれらの記事をまとめて一冊の本にした。題して「コンプリケーションズ」。これまた微妙なタイトルである。「紛糾」と「合併症」を一語で兼ねているからだ。その第一章は「誤謬」(fallibility)。以後何回か、しばらくこのコラムで彼の試行錯誤をとりあげよう。誰か奇特な人が早く「コンプリケーションズ」を邦訳してくれるといいのだけれど。

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