(掲載日 2005.6.21)
「サツまわり」という新聞業界用語がある。「サツ」とは警察のことで、駆け出し社会部記者のころ、短期間そこに放りこまれた。マルガイ(被害者)、マルヒ(被疑者)、ヤキトリ(焼死体)など野蛮な隠語が飛び交う現場を経験し、「半落ち」を書いた地方紙出身の作家、横山秀夫の描く世界と同じ空気を吸ったのである。
■気まずい瞬間
「ボウケン」というのもてっきりそうした隠語と思っていたら、たちまち先輩に「剖検だろ。検死課でどんなものか見てこいよ」と一蹴された。女検死官スカーペッタ・シリーズなら文字だけだから耐えられるが、眼前で実物のホトケ(死体)が解剖されるのに立ち会うなんて、気の弱い身には想像するさえ鳥肌がたつ。
「け、けっこうです」
おかげで日本のモルグを見る機会を逸した。しかし、事件や事故ならいざ知らず、人が病院で死んだとき、その死因を確定するための解剖・検死に担当医が遺族の同意を求めることがある。あれって、権利だろうか、義務だろうか。
「ご臨終です」と身内の死を告げられたあとで、医師からおずおずと「恐縮ですが、検死はどうされますか。ご同意があれば……」と言われた経験のある人は少なくないはずだ。安らかな死に顔を横目に、遺族はたいがい口ごもる。
「もう十分でしょう? これ以上、故人を苦しめたくありません」
気まずい瞬間である。変死体のように解剖台で切り刻まれたくない、と本能的に思う。もう心は葬儀のことか、先の暮らしの心配か、故人の思い出に飛んでいって、おぞましい光景など考えたくもない。
医師もそれをさとって「お邪魔しました」といった表情で無理押しせずに引き下がる。「二の舞を防ぐため」とか「医学の発展のため」とか言えるのは、故人が生前に献体を希望している場合か、よほどの難病か、死因が不審で後日のトラブルに備える場合に限られる。いまさら、帰らぬ人となったのに、死因など詮索しても……。誰もがそこで納得してしまう気がする。が、これでいいのだろうか。
このコラムの前二回で紹介したインド系アメリカ人外科医アタル・ガワンデ君も、医師の側の戸惑いを「コンプリケーションズ」で書いている。
■剖検が減った理由
彼の病院の解剖室は、地下の洗濯室と倉庫のはざま、何の表示もない鉄扉の彼方にある。高い天井、裸の壁、茶のタイルの床と殺風景だ。解剖台にはブンゼンガスのバーナー、八百屋にあるような旧式の吊り秤や計量秤が置いてあり、周囲の棚にはホルマリン漬けの脳や内臓を収めたタッパーウエア状のコンテナーが並んでいる。
これくらいでめげてはいけない。外科医のガワンデ君ですら、生体を相手にする手術と死体をヒラキにする解剖では、同じメスを使ってもまるで違うことを感じている。生体を切開する外科医は、どこか崇高な生命への畏敬を感じて丁重にからだを扱うが、剖検の検死医にはそんなデリカシーは不要である。家族の目のないところでは、遺体は単なる物体にすぎない。皮膚がはりつかないよう、ホースで水をまいて濡らしたステンレスの解剖台に、ストレッチャーで運んできた遺体の腕と脚をつかんでどさっと移すだけだ。
解剖の光景も背筋が冷たくなる。仰向けになった遺体の肩甲骨のあたりに6インチ角の金属箱を入れ、顎をあげ胸をそらせた状態にしてから、大型の6番スカルペルをバイオリンの弓を持つように握った検死医助手が、肩口からY字型に裂いていく。
そのあと手早く内臓摘出(evisceration、めったにお目にかからない単語である)が行われるのだ。電動ノコギリで肋骨を切断、心臓、肺臓、肝臓、胃、腎臓が取り出され、頭蓋骨も耳の後ろを電動ノコでスライスされ、脳が摘出される。あとは「7」の字状に縫合されて、腹部がへこんでいるほかは剖検の跡をとどめないよう処置される。
それでも、ぞっとしない。恐らく日本でもそうだろうが、近年のアメリカでは剖検が行われるのは死亡者の10%に満たないという。ガワンデ君によれば、20世紀初頭のドイツの病理学者ヴィルヒョウらの尽力で剖検の必要性が世に理解され、ピーク時には8割に達したことを思えば、これは見るも無残な凋落である。
ただ、剖検が減ったほんとうの理由は、遺族の拒絶にあるのではないらしい。最新の調査では、医師が理路整然と説明して剖検を求めれば遺族の8割は応じるという。実は医師のほうがもう剖検を求めなくなっているのだ。といっても、誤診による医療訴訟を恐れて、医師がわざと「死人に口なし」を励行して剖検にフタをしているのではないと信じよう。
多くは、解剖するまでもないと見切ってしまうのだ。すでに日本人の大半におなじみとなったCTスキャン(X線断層撮影)、MRI(核磁気共鳴)、超音波診断などの機器のおかげで、かつてはうかがい知れなかった生体の内部が克明に追跡できるようになったからだ。遺族に辛い思いをさせる「剖検のススメ」は、医師にも気が重いことなのだろう。
■剖検でみつかる誤診
しかし、剖検がなければアルツハイマー病もクロイツフェルト・ヤコブス病(BSE、俗称狂牛病)もエイズも手の施しようがなかったろう。ガワンデ君の経験でも、まず間違いないと思っていた死因がいざ剖検で遺体を開いてみると違っていた例が多い。
現に1998〜99年に行われたアメリカ医師会誌(Journal of the American Medical Association)など三つの調査によれば、剖検によって死因が誤診だったことが明らかになった例は、なお40%に達するという。高度医療機器のテクノロジーがまだほとんど実用に供されていなかった1960年代、70年代と変わらないのだ。奥の深い病理の神秘に比べれば、医療テクノロジーの進歩などささやかなものでしかない。
剖検は英語でAutopsyという。「aut」(自身の)と「-opsy」(検査)の合成語で、もともと「自己検証」という意味だ。遺族ばかりか医師まで剖検を回避するようになったのは、医療の現場がテクノロジーに頼って「自省」を疎かにしている兆しかもしれない。だから、外科医ガワンデ君はこう自戒するのだ。
「手術そのものが剖検の一種なのだ。……知識とテクノロジーで武装していても、いざ見てみると、発見したものに心構えができていないことがしばしばある。……患者が生きていようと死んでいようと、この目で見るまで知ることはできない」
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友人の作家、藤原伊織が食道ガンにかかり、雑誌に「発病始末」を書いた。これを機に次回からガワンデ君の「コンプリケーションズ」を離れて医療の自己検証を考えよう。
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