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(掲載日 2005.7.12) |
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医師が手術ミスをし、患者を傷つけた場合、刑事責任を問われる可能性があっても、その医療事故情報を警察に届け出る法的義務があるか。答えは、ない、だそうだ。実は患者死亡の場合も、ない、である。理由は、義務とすると憲法が「黙秘権」を保障しているのに反するからだ。筆者は最近、これを法律雑誌で知った。しかし、自分の無知を恥じつつ言うならば、ふつうの多くの国民が理解するとは思えない。この事例で逆に国民のいかに多くが憲法や法を誤解しているか、そして医療不信が増大しているか、事態の深刻さを痛感する。
この雑誌は、有斐閣が発行する「ジュリスト」2004年12月増刊号の「ケース・スタディ 生命倫理と法」(樋口範雄編著)である。生命倫理にかかわるモデルの事件を掲げ、それに医師、家族、法律家らがコメントを述べるという体裁をとる。
冒頭に紹介した事例は、その中にあるケース4の「医療事故情報の警察への報告」である。筆者は、不謹慎ながら、あまりに面白いので読みふけってしまった。詳しくは同誌を読んでもらうのが一番である。先刻承知だという医師もいるだろう。しかし、ここである程度は紹介したい。
■「法秩序」乱す?外科学会のガイドライン
ことの発端は、医師法21条の規定と、医療事故について日本外科学会が2002年に出した「声明」(ガイドライン)をめぐる問題である。医師法21条は、医師が「異常死」を検案したら24時間以内に警察に届け出ることを義務づける。
これに対し、外科学会は、医療過誤により患者の死亡・傷害を起こしたら、診療した医師が自発的に報告するよう求めた。21条どころか、患者が死亡していなくても報告しろというのである。21条を上回る自主基準である。
この外科学会ガイドラインは、「憲法38条1項は刑事責任を問われる可能性のある自己に不利益な供述を強制されない自由を保障している」と憲法に言及しつつ、医師に求められる高い倫理性を考えると、自発的な報告が必要だというのである。
「ジュリスト」で、外科学会の代表の立場から加藤紘之氏(外科学会長、北大大学院教授を歴任し、斗南病院長)は「社会にひらかれた医療を実践しようとする」ことの証からの提案だったと記す。その姿勢自体は正しい。ふつうの国民も「そうだ、そうだ」と言いそうである。
しかし、ガイドラインは法的に疑問なのである。同誌でコメントする法律家の児玉安司(弁護士、東大大学院特任教)、佐伯仁志(東大大学院教授)の両氏の考えを筆者がまとめると、こうなる。
(ア) |
このガイドラインを守るために憲法38条の黙秘権が制限されるのは疑問である。 |
(イ) |
医師法21条は犯罪捜査の進展をはかる趣旨であり、違反には刑事罰を科す。それを超えるガイドラインにより21条を解釈するのは、罪刑法定主義に反する。 |
(ウ) |
医療過誤により刑事責任を追及されるおそれのある医師に21条義務を課すのは憲法違反の疑いがある。 |
この問題に詳しい医師はともかく、それ以外の人は理解できただろうか。外科学会がよかれと思って定めたガイドラインは、逆に法秩序を混乱させるのである。法律家の結論は、医療過誤で刑事責任を問われるおそれのある医師は届け出る義務はない、である。
■医療界も真剣に意見交換を
では、どうすればいいか。法律家の答えはこれも明快である。まずガイドラインに関係なく、真に自発的に届けるのを妨げるものでない。もうひとつは、医師は患者の家族・遺族に報告すればよい。もちろん遺族から告発される可能性はある。
これを読んで思うのは、外科学会が憲法を誤解していることである。憲法(正確には立憲主義憲法)は権力の濫用から国民を守るところに本質があり、今回の問題で出てくる38条1項(自己負罪の拒否。わかりやすいのが黙秘権である)も、捜査官憲の権力制限が基本目的なのである。外科医が憲法を超えて自己申告する必要はない。
実は案外、憲法を誤解している国民がいる。たとえば「権利ばかりで義務がない」という。しかし、そもそも憲法は国民に義務を課すのが目的ではない(例外は納税、教育、勤労のみ)。権利の主張は「お互い様」で調整するのである(「公共の福祉」など)。それなのに衆参両院の憲法調査会での議論でも、おもに自民党議員が確信犯的に誤解してみせる。
ただ、外科学会にも気の毒な面があるようだ。まず、医師法21条の「異常死」の定義が判例を見ても範囲が広そうであり、法律専門家以外では逆に判断に困ると思われる。
また、たとえば看護師のミスで患者が死亡した場合、その死体を検案した医師について、本条を医療過誤事件として適用する余地はあるという(都立広尾病院事件)。先に「法秩序」と言った。しかし、これは法律専門家ならば理解できるものであり、外科学会が、とにかく報告を、と敏感に反応したのも無理からぬ面もあるように見える。
国会会議録検索システムで調べると、国会での議論では、乳幼児の突然死の救済にも医師法21条を使えないかという趣旨の質疑があった。
いずれも国民の医療不信がいかに強いかを背景にしているようだ。
どこから刑事制裁を加えるのが妥当か。少なくともこの「ジュリスト」の事例に登場する法律家に限っては控えめである。正確に言うと、冒頭の事例も、その控えめな解釈に基づく。この「ジュリスト」には、編著者である樋口範雄東大大学院教授が日本外科学会雑誌(105巻9号)に寄稿した文章が転載されている。それも深い内容である。
そういう冷静な議論ができる法律家がいるならばこそ、医療界も真剣に意見交換し、国民の理解を得られるように努めるべきだろう。
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