リオデジャネイロの貧民窟に生きる少年ギャングの群像を描いた「シティー・オブ・ゴッド」というブラジル映画があった。年端もいかぬ少年たちがドラッグ、強盗、殺人に手を染めるすさまじいバイオレンス映画である。が、ブラジル特有の陽光が横溢し、その奇妙な明るさゆえに、これが虚構でなく救いようのない現実なのだと納得させられる。
現にキャストはスラムに住む本物の少年たちだ。素人をつかって虚実皮膜の映像を撮った監督フェルナンド・メイレレスの手腕は侮れない。だいたい、タイトルの皮肉が利いている。スラム化した公営住宅の名なのだが、もちろん異教からキリスト教に回心した古代ローマの教父アウグスティヌスの主著「神の国」をもじるあたり、ただ者ではない。
■スパイ小説の中の新薬スキャンダル
そのメイレレス監督をハリウッドが釣りあげた。今度はスパイ小説の大家ジョン・ル・カレ原作の「コンスタント・ガーデナー」である。主演はレイフ・フィアンズとレイチェル・ワイズ(当初のヒロイン候補はニコール・キッドマンだったが、年齢が障害となって交代)というから、とんだ娯楽ミステリー大作映画になったのではと気がもめる。映像はスタイリッシュな人だけに、ハリウッドにつまみ食いされないか……と。
が、期待も半分ある。今度の舞台はアフリカ、ケニア内陸のトゥルカナ湖だからだ。その名を聞いてピンと来る人は、よほどの古人類学マニアだろう。青ナイルの上流にあるいわゆる「ホモ・サピエンス発祥の地」で、考古学者ルイス・リーキーが発掘した湖周辺の遺跡ではアウストラロピテクスやホモ・ハビタス、ホモ・エレクトゥスなど原人や猿人の遺骨も発見されている。
ネタばれは作法違反だから詳細は省くが、綿密な取材を重ねて重層的なミステリーを組み立てることで定評のあるル・カレが、わざわざこの地を舞台に選んだ意図はしだいに明らかになる。ここでもヒントはタイトルにあるのだ。
日本語に素直に訳せば「まめな庭師」(原作の邦題は意訳で「ナイロビの蜂」)。うだつのあがらないナイロビ駐在の英国人外交官の主人公が園芸を趣味としているからだが、ほんとうはその妻の殺害の背後に新薬開発のスキャンダルが見え隠れするのだ。「まめな庭師」とは、人体への臨床試験を重ねた新薬で巨富を稼ぐ製薬会社の寓意だろう。
メイレレス監督への期待はここにある。リオのスラムをあれだけリアルに描けたのだから、この新薬スキャンダルも「インサイダー」(ラッセル・クロウ主演)のタバコ会社批判のような勧善懲悪劇には仕立てないだろう、と。なぜなら「コンスタント・ガーデナー」にはモデルとなった実例があるからだ。不思議なことに、それを誰も口にしない。
原作でも映画でも致命的な副作用を起こす新薬「ダイプラクサ」は結核の特効薬とされている。では、実例のほうはどんな医薬なのか。小児マヒを制圧しようと1950年代に競って開発され、アフリカで投与された「CHAT」という経口ポリオ・ワクチン(OPV)である。その副作用として疑われているのが、20世紀の人類最大の災厄といわれるエイズ(後天性免疫不全症候群)なのだ。
これは血液製剤などを介して感染する薬害エイズとは違う。エイズ自体が、薬害による人災ではないかという仮説だ。周知のとおり、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)はコンゴの奥地のミドリザルなどが保有するSIV(サル免疫不全ウイルス)から派生したことが分かっている。しかし今も最大の謎は、サルとは何千年も共棲してきたこのウイルスが、なぜヒトへ飛び移って牙をむいたか、なのだ。
OPV仮説では、ワクチン培養にサルの腎臓をつかったため、ヒトとサルの生体的な壁を越えてウイルスがヒトの体内に入りこんだのではないかと考える。未立証である。CHATの開発・製造責任者であるヘンリー・コプロウスキ博士らのチームは、サルの腎臓など使っていないと全面否定した。が、立証されたら、OPVの製薬会社は天文学的な賠償を突きつけられるからかもしれない。
■アフリカのエイズ蔓延は人災
一般の人々が聞かされている説明はこうではない。文明がアフリカの未開の「闇の奥」にも届き、棲み分けていたヒトとミドリザルが接近遭遇――サルをペットにしたり、サルを狩って食用にしたため、ウイルスに感染したとされている。この「開発仮説」は一見わかりやすく、自然破壊の近代化批判とマッチするため人口に膾炙してきた。
しかしOPV仮説は、少数とはいえ検証されなければならない。ところが、HIVウイルス追跡ではあれほど激烈な競争をしたのに、なぜか公的機関も研究者も冷淡である。ポリオ退治がエイズ禍を生んだとなったら、医薬業界にとって最大のスキャンダルになるからか。ル・カレは原作で登場人物の一人にこう言わせている。
「アフリカには、世界のエイズ患者の80%がいるんだ、ピーター。控えめにいってその4分の3は薬物治療を受けていない。これに関しては、製薬会社と彼らの召使たち、そしてアメリカ国務省に感謝しなければならない。彼らは、アメリカで特許をとった薬の安価なヴァージョンをつくった国には制裁を加えると脅しているからね」
これは虚構のなかの紛れもない現実である。私も8年前にコンゴ国境まで行ったが、ケニアからジンバブエやモザンビークまでのアフリカ東部のエイズ感染率は、大半が人口の30%を超えていると聞いた。しかし高価なエイズ新薬は、これらの地域では購買力がない。OPV仮説は別としても、アフリカでのエイズ蔓延が人災であることは明らかに見える。
ル・カレはフィクションにことよせて製薬業界の偽善を指弾した。メイレレス監督の虚実皮膜の手法は映像でそれを訴えられるだろうか。OPV仮説を実際に立証しようとしたのは、一人のジャーナリスト、エドワード・フーパーだった。その労作「河――HIVとエイズの初源への旅」は600人のインタビュー、医学文献4000点を参照にした本格的な調査報道である。1000ページ余の大著で、残念ながらいまだに邦訳されない。
だが、ここにはもうひとつの「神の国」――医薬資本の原罪がある。次回以降、しばらくこの労作に沿って、OPV仮説の是非を論じていこう。
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