アフリカのチンパンジーなどが持つSIV(サル免疫不全ウィルス)にヒトが感染し、それがHIV(ヒト免疫不全ウィルス)に変異してエイズ蔓延という20世紀の悲劇を招いたと一般には言われているが、その謎はいまも十分に解けたわけではない。
前回、その感染経路が1950年代にコンゴで投与された経口ポリオワクチン(OPV)だったのではないかという仮説を紹介したが、最初に載ったのが医学専門誌ではなく、ロック雑誌「ローリーング・ストーン」誌だったところに、この説の不幸な生い立ちがある。
■奇説珍説扱い
記事は「エイズの起源」という地味なものだが、ワクチン製造に安全性への配慮が欠けていて、霊長目のサルの組織を経由してエイズを広げる「起源」になったのではないかという自然科学者ルイ・パスカルの説を紹介している。ロック誌に載ったのは、どの雑誌にも掲載を拒否されて、最後にオーストラリアの大学雑誌に載り、ジャーナリストがそれを発掘したという経緯があるからだ。
評判は呼んだものの、専門家は奇説珍説扱いした。が、徹底した調査報道を敢行し、大作「ザ・リバー」を書いて立証しようとしたのが、BBCの元アフリカ特派員のジャーナリスト、エドワード・フーパーである。
しかし、フーパーへの反撃が始まる。科学誌「ネイチャー」2001年04月26日号は「敗れたポリオワクチン説」と題してOPV人災説を否定する記事を載せた。それによると、英国の国立生物学基準・対策研究所(NIBSC)が、コンゴで使われた疑惑のワクチンのサンプルを研究所の冷蔵庫に保管していて、ネイル・ベリー研究員のチームが中身を検証したところ、HIVもSIVも検出されなかったという。
HIV-1はチンパンジーのもつウイルスSIVcpzがヒトに感染した疑いが強く、フーパー説でもワクチン製造のためコンゴでチンパンジーの内臓をつかったと疑っている。ところが、このワクチンから検出された組織はチンパンジー(ショウジョウ科)でなく、マカク(ニホンザルなどと同じオナガザル科)のものだったという。
フランスのパスツール研究所でも、フィリップ・ブランコウ研究員らが、疑惑のワクチンを製造したアメリカのウィスター研究所が保管するオリジナルのサンプルを調べたが、やはりHIVは検出されず、マカクの組織への陽性反応しか出なかった。
さらにオクスフォード大学のハワード・ホームズらが1997年にコンゴで集めたHIVの遺伝子を精査、「遺伝子から見たHIV-1の歴史は古典的な指数関数的な疫学的広がりを示していて、1950年代に汚染された経口ポリオワクチンの接種による多重感染の痕跡はない」と結論づけた。
ネイチャー誌によれば、ホームズはフーパーの“告発”をジャーナリスト的な魔女狩りと見ており、HIV感染は自然な生態学的プロセスだったと主張している。ベリーも「否定の証明は常に難しいが、実際、研究結果にフーパーの仮説を支持するデータはまったくない」と語り、パスツール研究所のサイモン・ウエイン=ホブソンも「恐ろしげな仮説と存分に戯れるのはいいが、いまは証拠を示す責任がある」と批判的だ。
劣勢のフーパーはこの記事にコメントを寄せなかった。泰山鳴動、ねずみ一匹。ジャーナリズムなど砂上の楼閣、単なる素人の妄想で片付けられてしまうのだろうか。自分がジャーナリストの片割れだけに、この仮説の運命は他人事ではない。
■コンゴの「闇の奥」へ
フーパーの仮説にただひとり、肩入れした生物学者がいる。オクスフォード大学動物学科で王立学会研究所教授をつとめたことのあるウィリアム・ハミルトン(1936〜2000)である。といってもご存じないなら、大学の同僚だったリチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」−−遺伝子の視点(gene’s eye)のアイデアの産みの親であり、93年に京都賞を受賞した人である。
天性のナチュラリストだけに、ケンブリッジの学生時代は不幸だった。遺伝学のヴィンセント・ウィグルワース(1899〜1944)は種淘汰一点張りのメカニカルな考え方だし、人類学のエドマンド・リーチ(1910〜89)も機能主義のマリノフスキーの弟子だけに、血縁淘汰を「優生学の亡霊」と毛嫌いして聞く耳を持たなかった。
やむなくハミルトンは中学校の教員資格でもとろうと思ったが採用は見込み薄で、手先の器用を生かして大工になろうかとも考えた。辛うじてひっかかったのが、文科系のLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)大学院だったが、彼がやりたい分野には指導教官がおらず、図書館か自室で過ごすほかは雑踏をさまよった。ときにホモに言い寄られながら、ウォータールー駅構内やキュー植物園のベンチで独学したという。
ハミルトンが「ダーウィン以来の画期的進化論者」と目されるようになるのは、1960年代に黙々と進めた血縁淘汰の研究からだろう。当時はまだ舌足らずで数式も幼稚だったが、サセックス大学のジョン・メナード=スミス(1920〜2004)が囚人のジレンマ(ナッシュ均衡)を応用したESS(進化的に安定的な戦略)に仕立てた。
「利己的な遺伝子」でもESSや安定多型(Stable polymorphism)が何度も登場する。ドーキンスは、利己主義が利他主義に変換されてしまう不思議を華麗に吹聴してみせたから、はじめはSFとして読まれ、つぎに轟々たる反発を巻き起こした。
変人ハミルトンはその後もユニークな研究を発表しつづける。最後に行き着いた理論のひとつがホスト・パラサイト共生論である。その見地からフーパー仮説を立証しようと、内乱が続くコンゴの「闇の奥」に自らチンパンジーの糞を採集に行ったが、悪性マラリアに感染して六十三歳で惜しい命を落とした。
ハミルトンは名文家でもあった。ドーキンスが弔辞で引用した文章は、ハミルトンが日本の昆虫専門誌『インセクタリゥム』九一年七月号に寄稿し、ザ・タイムズ文芸特集(TLS)92年9月11日号に転載した「虫との日々、埋葬の計画」(原題 No stones unturned: a bug-hunter’s life and death)である。
■芭蕉を好んだ生物学者
彼は死骸の「掃除屋」ダイコクコガネに魅せられていた。金属光沢の金と黄と緑の甲皮を輝かせ、黒い角をふりかざす丸々としたこの虫に、自分が死んで貪り食われる埋葬の日を夢見るのだ。昆虫の楽園への転生である。
「彼らは私のなかに入りこみ、私のからだを土に埋め、私の肉を食べて生きるだろう。私は彼らの子孫と私の子孫にすがたを変えて生き残っていく。ウジムシも、不潔なハエもたかることはない。夕闇につつまれて、私は巨大なマルハナバチの羽音のように低いざわめきをたてる。私は無数の部分に分かれていき、ほとんどオートバイの一群のような大きな音をたてる。からだは次々と空に舞いあがり、星々のしたに広がるブラジルの大原野へ飛んでいく。その背にはみな美しい翅鞘をそなえ、それを広げて空高く飛翔する。そしてついに私は、石の下で見たあのオサムシのように、紫色に輝くのだ」(大平裕司訳)
ハミルトンは芭蕉が好きで、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句を理解した、おそらくただひとりの英国人生物学者だろう。自身の生涯もこの句に似ているが、自分の論文集も「奥の細道」にちなんで「遺伝子の国の細道」と題したほどである。
こういう自然観を持つ人が、単なる思い付きでフーパーの肩を持ったとは思いたくない。ハミルトンに寄り添うかたちで「仮説」というものの意味を追いたい。
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