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コラム
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「その英語、どこを向いている」 浜田 秀夫
(掲載日 2005.11.08)
 筆者は、この1年ほど、本欄もそうであるように、インターネット上でいくつかの文章を発表しており、そのネタ元の一つとして、米国政府のウェブサイトにある記者会見や演説などの公表資料を利用することがある。日本政府発表だけでは不十分なことがあるからだ。米政府サイトなので、当然、英語を読む必要がある。それで気づいたのは、日本のマスメディアの特派員たちは大変だなということである。

 ホワイトハウスにせよ、国務省にせよ、報道官はもとより大統領、国務長官の記者会見が、あまり時間をおかずに全文が掲載される。半日もすればビデオも掲載される。日本の普通の読者が英語を苦にしないならば、米国が何を言っているか新聞・テレビなどのメディアを通さずに自分で確認できる。意地悪を言えば新聞記事に誤訳がないかチェックできるし、会見ビデオならばどんな記者が質問しているかもわかる。まさにインターネット時代ならではのことである。

■「外向きの英語」「内向きの英語」

 筆者が米政府サイトを見たときは、日米関係がらみで質問していたのは、どうも若い女性記者ばかりだった。それはなかなか流暢だった。女性記者は、声の質から、おそらく日本人だろう。画面は報道官を映すのみなので記者の姿は不明である。日本の男性の特派員で米人記者にまじって英語で質疑応答できる者はそう多くないのだろうと、経験則も踏まえ想像した。これが「大変」という意味である。

 さらに気づいたのは、筆者自身がこのように他人の英語のことを「流暢云々」というように、日本人は我が同胞の英語の使いぶりを気にする傾向が強くはないかということである。そして、思ったのは、「日本人と英語」について考えると、日本における英語には、「外向きの英語」と「内向きの英語」というふたつの「向き」の英語があるのではないかということである。

 これは筆者によるオリジナルな考えである。といってたいそうなものではない。しかし、まずは言葉を簡単に定義しておこう。「外向きの英語」とは、本来、英語は世界共通語として、世界に向けて何かを伝えるための道具であるので、その通り何かを表明するために発信する(書く・話す)英語である。

 一方、「内向きの英語」は、筆者が日本人特派員の英語を論評するように、日本社会で「あの人は英語ができる」とか逆に「できない」のような評価を考えることである。英語で何かを伝えたいというより、英語ができるかどうかという評価が大事で英語が自己目的化するような場合を言う。詳しく言い出すときりがないので、とりあえずこんなところにしておこう。

 最近も例がある。先の総選挙で当選した自民党の新人女性議員3人が東京の外国特派員協会に招かれ、スピーチや会見をした。テレビなどで関心を集めたのは、彼女らが発言した中身よりは、いかに英語を操ったかではないか。もちろん、彼女らが「内向き」なのではない。受け取る国民の側である。へぇー、英語で政治や経済のことをしゃべれるんだ、そんなふうに感心した視聴者が多かったと思う。

 他人の英語力が気になるのはなぜだろう。おそらく多くの人が「自分はできない」「しかし、英語くらいはできるようになりたい」というふうに思っていることが前提にある。「内向き英語」の典型は受験の英語であろう。日本社会での入学・入社の人材評価に使われる。「英語」ができるかどうかよりも、「英語の試験」でどれだけ得点するかをはかるのではないか。

 それで思うのは、受験の英語のように「内向き」の評価を第一義にする英語は、試験が終わってしまえば、それまでになりがちである。だから身に付かない。もちろん、人によっては受験英語でもすばらしくできる人もいよう。そうした例外はあるのだろうけれど、全体の大づかみな話としてである。

 注意すべきは「外向き」「内向き」は、先に少し触れた「発信」(話す・書く)と、「受信」(読む・聞く)という言語の機能分類に重なる部分はあるものの、次元の違う話であることだ。受験で発信能力を試しても、終わればおしまいなら同じである。

■「手段」としての英語

 何よりも日本人の「内向き」英語の最大の理由は、「外向き」になる必要や機会が乏しかったからだろう。日本と対極にある姿を想像するとわかりやすい。飢餓や内戦で苦しむ国の人々が欧米のテレビクルーのカメラに向かって、「英語」で国際社会の救援を求める。これが「外向き英語」である。発音がいい悪いの評判は関係ない。メッセージが伝わるかどうかが大事である。

 しかし、最近、日本人でも「外向き英語」を使う人材が増えているように思う。いずれもテレビで見た例なので、正確でないかもしれないという留保をしつつ、まず、米国で活躍する「神の手」と呼ばれる外科医がそうだ。発音の上手下手に関係なく、しっかり相手に伝わっている。

 この医師で思い出すのは、ベテランのプロゴルファー青木功が下手な発音でも積極的にしゃべり米国人に溶け込んできたようであることだ。ほかには、最近では上手な人が出てきた。ゴルフでは宮里藍、サッカーの中田選手の英語による会見が、それぞれなかなかすばらしいと思った。野球の松井も「外向き」のように思える。

 これらの人々に共通するのは、いずれもいわば手に職をもち、それを活かすために英語を使おうとしている人たちである。日本社会での序列や肩書に関係なく、自分の力量で戦う人たちである。何か真にやりたい目的があり、それを外国であるいは外国との関係で実現させることが大事だと考えるとき、英語ができればより有効になる。そんな例である。

 以上を総合すると、英語を自己目的化せず、あくまで何かやりたいことがあり、その手段として英語を使う場合、より身に付きやすいということが想像できる。しかし、筆者なんかそうだけれど、いま外国で何かすごい取り組みをやるつもりなどない。せいぜい冒頭に述べたように米国などのサイトを見るぐらいである。そんなとき、どうすれば身に付くか。

■「身の丈にあった」英語

 最終結論は、いわば「身の丈に合った英語」である。筆者の場合、インターネットサイトはこれからも読む。ということは、それが目的なのだから、さし当たってそれに見合った能力があればいい。ほかの人で言えば、たとえば「海外旅行で困らない程度」という目的を設定する。大事なのは、この「目的」がほぼ「身の丈」に重なるといっていいことだろう。

 日本社会での評価を気にするのでなく、自分の身の丈に合う目的に応じた英語ができればよいのではないか。ところで、筆者は他人(マスメディア特派員ら)の仕事ぶりを言った。しかし、考えてみると、筆者も外国サイトを一部翻訳し、ネット上で文章を書くのだから、自分の「誤訳」を指摘される可能性もある。これもインターネットの双方向性だ。やはり評価が気になる、か。
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