「利己的な遺伝子」は人口に膾炙して久しい。オクスフォード大学教授のリチャード・ドーキンスが1970年代に書いたベストセラーのタイトルだ。ドーキンスは比喩の達人で、進化論の難問である生物の「利他行動」も、遺伝子から見ればわが身を捨てても同じ遺伝子を持つ血縁を生き延びさせる行動にすぎないと説いた。
子を救うために親が命を捨てるといった崇高な利他行動も、遺伝子レベルではエゴイズムにすぎないという「利己的な遺伝子」理論は、目からウロコのショックを世に与えるとともに、宗教界は「無私の美しさを否定する」と非難した。しかし陰には悲劇が潜んでいる。「遺伝子の目」で世界を解体するこの斬新なアイデアは、ドーキンスよりも先達がいたのだ。
■進化論史でもっとも悲しいエピソード
前回、アフリカで急性マラリアに罹って命を落としたと書いた進化生物学者ウィリアム・ハミルトンである。彼はイギリス人らしい風狂の人で、晩年は誰にも愛されたが、若いころはその奇矯に聞こえる理論とともに孤独だった。ほんの一握りしか彼を理解しなかったが、中に空から舞い降りてきたようなアメリカ人の天才、ジョージ・プライスがいる。彼はハミルトンの理論を統計学の共分散で洗練したのである。
プライスの生涯は、進化論史でもっとも悲しいエピソードの一つだろう。類まれな頭脳を持ち、最新のゲーム理論を応用して、奇跡のような進化の方程式を残した。この方程式は化学、社会、遺伝、その他のあらゆる進化を一つに統合するモデルを提示できる。ところが、1975年の年明け早々の1月6日、爪切り鋏で自らの頚動脈を切り裂いたのだ。今は方程式にのみ名をとどめる彼のことを書いてみたい。
死んだ場所は北ロンドンの凡庸なターミナル駅、ユーストンのすぐそばにある卵形の広場、トルマーズ・スクエアである。広場にはパブ風のタバーンがあって、屋外にテーブルや椅子をならべ、エールのジョッキやワイングラスを傾ける客がちらほら。「蚤の市」が賑やかな近くのカムデン・タウンに比べ、ピンボールマシンの音が空々しい。
通りの向かいから高さ120メートル余の無機質な高層ビル「ユーストン・タワー」が見下ろしている。二つの大通りの交差点のそばで、地下道を疾走する車の騒音が囂々と轟く。83年前、和歌山出身で怪人とも奇人とも言われた碩学、南方熊楠がアメリカからロンドンに流れつき、最初に寄寓した宿もこのあたりだった。75年当時は、広場周辺の地上げに激しい抵抗が起き、廃屋の6棟に学生や地域運動家、さらにジャンキーや失業者らが住みつき、コミューンと化していた。なぜこんな陋巷で死を選んだのか。
■「利他」を「利己」に分解する劇薬の論理
プライスはもともと数学者ではない。父はニューヨークの電力業界に身を置き、母はオペラの歌手だった。4歳で父を失い、大恐慌でこの母子家庭は苦労したらしい。43年にシカゴ大学で化学の博士号をとり、すぐ原爆開発のマンハッタン計画に参加して、ウラニウムの化学解析を担当した。47年に結婚して娘が二人生まれる。ハーヴァード大学、国立アルゴンヌ研究所、ミネソタ大学と順調に学者の道を歩んだが、夫婦仲はよくなかった。彼はミリタントな無神論者なのに、妻は敬虔なカソリックで喧嘩が絶えず、とうとう8年目に離婚した。
踏ん切りをつけたかったのか、フリーランスの科学ライターになる。『サイエンス』誌で超能力のイカサマを暴く記事を書いたり、『フォーチュン』誌でのちのアップルやウインドウズの出現を予言する記事を書いたりした。冷戦の核の恐怖が高まった57年には、『ライフ』誌に軍拡論を寄稿。その縁で民主党の上院議員ハバート・H・ハンフリー(のちジョンソン政権の副大統領)と親しくなり、ゲーム理論を基礎にした外交政策を提案するようになる。恐怖の均衡のもとでソ連とどう対峙すべきか、という本を書こうとした「ストレンジラブ博士」の卵だったが、完成しなかった。
61年にIBMに入り、画像データのプロセッシング、ついでコンピューターの設計を支援するマーケットプランナーとなる。66年に転機が訪れた。甲状腺に癌ができたのだ。切除手術したが、肩と腕が麻痺したうえ、甲状腺ホルモンを薬に頼らざるをえなくなった。でも、おかげで保険金が入り、職を放り出して44歳でロンドンへ遊学する。心機一転、豪華客船エリザベス二世号に乗っての船旅だった。
ロンドンの都心近くに居を定めて、大英博物館などを片っ端からまわる。ロンドン大学の本部図書館で目をつけたのが、ハミルトンの論文「社会行動の遺伝進化」だった。本来、利己的な個体がときに利他的な行動(自己犠牲)をとるのは、個体は直接の子孫を増やそうとする(個体淘汰)だけでなく、自分と同じ遺伝子を持つ近親の子孫も増やそうとする(血縁淘汰)と考えた。身びいき利他主義(nepotistic altruism)というアイデアである。
プライスは68年3月、ハミルトンに「図書館で閲読するにはちょっと手ごわい数式なので」と論文の複写を送ってくれと頼む手紙を書いた。その夏、ブラジルに渡航したハミルトンを追ってプライスの手紙が届く。「君の論文の主な成果をより透明に(厳格ではないが)導出した公式を発見した」と書いてあった。それがプライス方程式の誕生だった。いかなる「利他」も「利己」に分解してしまう劇薬の論理である。
■極貧に身を落として
科学誌の権威『ネイチャー』にも投稿、ようやく名声に近づいたかに見えたが、70年6月6日、突然、神は存在するという啓示が訪れた。ロンドンの市街をさまよい、ひとり黙祷する教会を探した。新約聖書を研究して55ページの論文を書く。四福音書の記述の矛盾を分析し、イエスの磔刑から復活までの聖週が通説と違って12日間だと証明してみせたのだ。ハミルトンにも改宗を迫って、にべもなく拒まれる。
プライス方程式は、純粋な無私など存在しないことを証明するかに見えた。だが、無私がありうると証明しようとしたのか、プライス自身は住んでいたフラットを捨て、時計もコートもみな浮浪者にあげて、空家を転々とする無一文の身となった。自ら極貧に身を落として実験台にしたかに見える。74年には研究所を辞めた。「自分が携わっているたぐいの数理遺伝学は、人間の問題とさほど関係がないと感じた」からだ。
この天才の最期をハミルトンは看取った。「利他」の不在は、彼の自死によって証明されたのか――。その悲劇は今回では書ききれないので、次回でも再論する。
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