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コラム
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「少子化対策としての教育費負担軽減は有効か」 土居 丈朗
(掲載日 2006.02.07)
 昨年の内閣改造後、各省庁横断的に少子化対策についての議論が活発化している。まだ具体策が打ち出されたわけではないが、昨年、我が国の総人口が減少したのではないかとの見通しが示されたことが1つのショックとなって、少子化対策の取りまとめを急ぐ機運が高まっている。

 以前にも、このコラムで、筆者は少子化対策について言及したが、その中で少子化対策の1つに子供の教育費負担の軽減があることを指摘した。この点について、今回はより深く言及したい。

 子を持つ親として筆者も子供にお金をかけることは厭わないが、教育費のやりくりは悩ましい問題である。他方、大学の一教員という教育者の立場から見ると、愛しい我が学生といえども、同じ授業料を払って大学に籍を置いていながら、真面目に毎回出席する者もいれば、初回と最終回しか来ない者もいるわけで、斯くも講義に対する態度が違うものかと考えさせられる。

 我が国における教育費負担の増大は、究極的には「良い大学」に入りたいことに端を発している。たいていの親は、将来の職業まで事前に決めて子供を拘束するつもりはほとんどないから、将来の就職に有利な「良い大学」に入るためなら、小学校受験もいとわないとか、高額の授業料の予備校や塾に通わせることも厭わない、というわけだ。たいていの親にとって教育費の投資は「良い就職」のためというより、「良い大学」に入るため、と言ってよい。そうなると、子供が大学を出るまでにかかる教育費を軽減すれば、子供を持とうという気持ちになる人が増えるかもしれない。

■学業優秀な学生にこそインセンティブを

 しかし、すべての子供に対して教育費軽減の財政支援を講じると、モラルハザードが起こる可能性があり、必ずしも良い方法とは思えない。つまり、授業料の多くを公費で補助してもらい、子供は高校や大学に籍だけ置いて、授業をさぼって遊んでいる、といった現象が容易に起こり得る。親の負担が軽くなるだけだ。ただでさえ今の日本の大学は「レジャーランド」化しているのに、「全員」の子供の高等教育の経費を軽減にすれば、それに拍車をかけることになるのではないか。

  特に、高等教育の経費を子供本人ではなく、親が負担していることが顕著な我が国において、優秀な学業の成績を取る学生に対して、経済的負担を軽減するなどの「報い」は少な過ぎると思われる。それを改善する必要がある。そのためには、学生(あるいはその親)によい形でインセンティブをつけなければならない。
 
  その1つの方法として、ある一定水準以上の優秀な学業の成績を取る学生(の親)にだけ、高等教育の経費負担を軽減することにすればよい。しかも、負担軽減の方法は、奨学金や授業料の免除という形で行なうのがよい。

 その観点からいえば、現在の奨学金の与え方も重大な問題がある。つまり、これまで奨学金は、低所得者への配慮ということでなされてきた。確かに、低所得の親の「学業」が優秀な子供にとってはありがたいことだが、親が低所得だからと言って不出来な子供にも同じように対応するべきだろうか。

  特に、大学は、全員が行かなくてもよい教育機関である。自分の生涯で大学教育を受ける必要があると思う者だけが行けばよい教育機関である。大学教育をそもそも受けなくてよい子供に、奨学金のせいで大学教育の経費の負担が重くないと錯覚して大学に行かせて無駄に4年間を過ごさせるより、もっと別の方法で生きる道があるはずだ。その典型的な例が、スポーツ推薦による大学入学だろう。

 低所得の親の、スポーツ万能という意味で優秀な子供に、奨学金を与えることがある。学業で一定水準以上の能力があって、大学での学業もこなしながらスポーツもするということは、それは大いにあってよいことである。しかし、学業の能力がないのにスポーツだけできたのでは、純然たる大学教育を受ける必要はないだろう。スポーツは、はっきり言って、大学に来なくてもできる。プロ球団や社会人野球など、他にも進路があるわけで、学問を教え、学ぶ大学において、そうした所に奨学金を出すのは、純然たる大学教育を行うことを逆に妨げることになりかねない。

  さらに、授業料を学業の成績に応じて変える仕組みを導入すれば、(必ずしも奨学金を用いなくても)効果が上がるのではないか、と常々考えている。例えば、現在は、授業料が1人当たり年100万円なら、1学年600人にいる学部からは1学年だけで、年6億円の授業料収入が入るという構造である。それを、例えば、成績の上位順に全体の3分の1にあたる200人からは授業料をとらず、その次の3分の1の200人から年100万円、下位の3分の1の200人から授業料を年200万円を得るとしよう。成績が優秀な学生(をもつ親)ほど、大学教育の経費負担が大幅に軽減されることになる。

 しかも、大学側の授業料収入は不変なので、追加的な大学助成などの国からの財政負担は不要である。そして、本当に負担軽減をしてあげたい学業が優秀な学生にだけ、負担軽減ができる。他方、大学の講義に真面目に出てこず成績が悪い割には、大学のネームブランドを交遊の場や就職活動で使い、学割などの特権を大学に所属しているだけで行使している学生からは、それだけの対価を大学が要求する、というわけだ。

■抵抗勢力は大学教員?

  もちろん、3段階にしているために、ゼロの人もいれば、200万円(完全平等の負担の2倍)を負担する人もいるという構図になっているので、その段階を10段階とか、それなりに多い区切りにすれば、段階間の負担格差を和らげることはできる。ただ、趣旨は同じことである。

 ただ、この仕組みの最大の「抵抗勢力」は、大学教員ではないかと皮肉にも思ったりもする。この仕組みが導入されれば、学生は成績で授業料が決まるので、講義の試験での成績評価をこれまで以上に真剣に捉えるようになる。筆者にとっては、それはとても望ましいことだと思うが、さて、それに今の大学教員が耐えられるだろうか。

  伝説的な話で言えば、講義の試験の答案を回収後に一顧だにせず、ただ研究室の窓から答案の束を放り投げて、遠くに飛んだ答案を書いた学生に「不可」の成績をつける(なぜなら、たくさん文章を書いた答案は鉛筆の筆跡で重くなり真下に落ち、ほとんど書いていない答案は軽くて遠くに飛ぶから)といったような、いい加減な評価は、この仕組みが導入されれば確実に許されないものとなろう。

  我が国の大学教員の多くは、(残念ながらというべきか)大学の講義、そしてその試験の採点を「程々」にしていると思われる(もちろん、真剣になさっておられる先生も一定数おられるが)。そんなシビアに大学の講義、成績評価を捉えられても困る、というのが、多くの大学教員の本音ではないかと思われる。そうなると、そうした授業料のインセンティブ構造を導入するインセンティブが、大学教員側には積極的にはないかもしれない。

 でも、筆者はこうした仕組みが導入されて然るべきだと考える。教育論は、どの学問分野でも大学教員は話し始めると十人十色で議論が止まらなくなるようで、まともに議論すると教授会が「徹夜国会」みたいになってしまい、残念ながら多くの大学の教授会では教育論の議論をまともにしない傾向があるようだ。こうした仕組みの導入も、個々の既存の講義のスタイルに影響するので、「徹夜国会」を覚悟しなければ実現できないだろう。

 とはいえ、少子化対策として出てきそうな教育費負担軽減の具体策には、上記のような発想が重要であることには変わりない。そうしたことが考慮されることを期待したい。
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