英米の科学誌「ネイチャー」や「サイエンス」の権威が地に落ちた感がある。遺伝子工学でスキャンダルが立て続けに起きた。ソウル大学の黄禹錫(ファン・ウソク)教授の論文、東京大学工学系大学院の多比良和誠教授の共同署名論文が、実験データを捏造したとの疑惑を晴らせず、掲載した科学誌や学術誌の見識が問われる事態となった。
誰がこの「論文投稿のアリーナ(競技場)」というアイデアを考えたか知らないが、学者としての世間の評価を上げようと権威ある科学誌に競って投稿し、掲載論文が世界の共有財産になって次世代の研究進化を促すこと自体は、悪いメカニズムではない。新たな科学の知見をパテントで私有化し、巨利をせしめようという拝金主義の風潮のなかでは貴重とも言える。問題は、掲載を決めるアンパイアが誰になるかである。
学界の重鎮が編集部から委嘱されて論文を査閲し、世に知らしめる価値と新しい知見を含むと判断された場合に「掲載OK」が出る仕組みだが、往々にしてパラダイム・シフトが起きるとき、学の権威は新奇を嫌って封圧しがちなのだ。それをどうかいくぐるかの手練手管も洗練されてきた。そのあげくに今回の疑惑が発生したのだが、「いたちごっこ」自体は以前から珍しいことではない。
■「アメリカン・ドリーム」の持ち主
「利己的な遺伝子」の着想のもとになった天才“風来坊”ジョージ・プライスの方程式と、それを世に出そうと「ネイチャー」誌の査閲の目をかいくぐった友人ウィリアム・ハミルトンの逸話は、データ捏造のような邪道ではなく、歴とした進化論の新説ですら「ネイチャー」誌というヒノキ舞台にのぼるには、どれほど苦労するかを示している。
IBMの職を投げだしてロンドンに渡ったアメリカ人プライスは、大英博物館などの図書館を片っ端からまわる。ロンドン大学の本部図書館(Senate House library)で目をつけたのが、ハミルトンの論文「社会行動の遺伝進化」だった。1968年3月、ハミルトンに「図書館で閲読するにはちょっと手ごわい数式なので」と複写を送ってくれと頼む手紙を書いた。その夏、ハナバチなど社会性昆虫の観察のためブラジルに渡航したハミルトンを追ってプライスの手紙が届く。「君の論文の主な成果をより透明に(厳格ではないが)導出した公式を発見した」と書いてあった。それがプライス方程式の誕生だった。
方程式が簡単すぎてプライス自身、オリジナルとは信じられなかった。で、ユニバーシティ・カレッジのゴールトン研究所の門を叩いた。ダーウィンの従弟の名にちなんだ由緒ある研究所だ。誰か数学のわかる遺伝学者はいないかと聞いたら、ハミルトンの上司が出てきた。そこで方程式を披露すると「極めて面白い。でも初耳だ」という反応で、一時間半もたたないうちに、プライスは名誉研究員になっていた。
順風満帆に見えたが、翌69年3月に母危篤と聞いてニューヨークに帰る。集団遺伝学の若き俊英に会って、考案した方程式と新アプローチを説いたが、理解されなかった。がっかりして5月にロンドンに帰ったけれど、捨てる神あれば拾う神ありで、6月にハミルトンがブラジルからもどってきた。プライスはさっそく手紙を送る。やんわりと自分の共分散方程式を推奨した。電話番号も添えて。はじめて2人は電話で会話する。
ハミルトンによれば、プライスの声は甲高く、慇懃無礼で、かなり警戒的だった。でも、方程式のことになると、「僕にとっても驚きでね――ちょいとした奇跡なんだ」と誇らしげになる。彼は優れた学術論文を書けば大金を稼げると信じていた。学界ではまったく無名なのに、いきなり「ネイチャー」誌に投稿して掲載されれば、一夜にして富豪になれると思っていたのだ。アメリカン・ドリームの持ち主だったのだ。
プライスの優れた頭脳と、その方程式の革命的な価値を信じるようになったハミルトンは、「ネイチャー」誌掲載がそうたやすいものでないことを知っていた。査閲者の手元に置かれたまま散々待たされたあげく、「掲載に値しない」の一語で突き返される。あとで気がつけば、査読者がその論文のアイデアをちゃっかり自分の論文に盗用している……。
■突然の神の啓示
利他主義と見えるものも、実は血縁の生き残りを増やして遺伝子の生き残りを図る利己主義の変型に過ぎない――というハミルトン自身の着想も、ナチス時代の暗い記憶から優生学をタブー視する風潮に邪魔されて、世に出るのが遅れる苦い経験を経ていたのだ。何の業績もない門外漢がこの高い敷居を越えるには、一計を案じなければいけない。ハミルトンは言った。ようし、ここは「トロイの木馬」でいこう、と。
プライスの投稿と踝(きびす)を接して、自分も「ネイチャー」誌に別の論文を投稿する。そこでプライスの論文をこう引用しておくのだ。
以前、相互作用する固体間の平均の遺伝相関が、社会適応の進化においては重要な因子となることを私は示した。このモデルでは、ある限界内の利己性なら難なく説明できたが、嫌がらせ(他者により大きな害を与えるために自己に害をなす)は説明可能には見えなかった。しかし別の理論に従えば、(相関が負のとき)嫌がらせは選択可能であることが示される。より一般的な分析のなかで新たに発見された自然淘汰の公式を使って、G・R・プライス博士も独自に同じ結論に達している。 |
この「自然淘汰の公式」が、今も淘汰の汎用公式とされる「プライス方程式」なのだ。が、それは後から顧みての話である。当時の「ネイチャー」誌の査読者は価値が分からなかった。実績のないプライスは案の定、“落第”を告げられる。ところが、ハミルトン論文は掲載の実績があるため、編集部から楽々と掲載OKを得た。ハミルトンは矛盾を突く。「依拠した先行論文が却下されるなら、私の論文も取り下げざるをえません」。
ハミルトンは自分の論文を「トロイの木馬」に仕立てていたのだ。虚を突かれた編集部は、プライス論文掲載を渋々承諾した。69年11月に審査を通過、翌70年8月1日号で「淘汰と分散」が掲載された。プライスは後に書いている。
淘汰は主に遺伝学で研究されてきた。しかしもちろん、遺伝的淘汰だけでなく淘汰(選択)はもっと幅広い。たとえば、心理学でいう試行錯誤による学習は、淘汰(選択)による学習にすぎない。化学でも、平衡条件下の再結晶で淘汰が働いている。不純な不定形の結晶は壊れて、純粋な定形の結晶が育っていくからだ。古生物学、考古学でも、淘汰は石器や土器、歯といった(硬い)ものに有利に働き、人類の遺骨のうちでも下顎(発見)の頻度を増やしている。言語学でも、淘汰は音素や文法、語彙の形成や再形成にやむことなく作用している。歴史でも、マケドニアやローマ、モスクワ大公国の興隆に政治的淘汰を見ることができる。同じように、民間の起業システムに働く経済的淘汰も、企業や製品の興亡を引き起こす。そして科学それ自体も一部は淘汰によって形成される。実験的テストや他の基準に照らして、せめぎあう仮説同士のあいだで淘汰されるからである。 |
プライスの方程式も「ネイチャー」誌の「淘汰」に勝ち残った。が、70年6月6日、突然、神は存在するという啓示が彼に訪れた。『情事の終り』のセアラのようにロンドンの市街をさまよい、ひとり黙祷する教会を探す。彼が自殺を遂げたのは、それからわずか4年半後だった。
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