表題をご覧になって、またたいそうなことを、と思われるかもしれない。自分でも大きく出たなとは思う。この文章の中身を予告すれば、以前、この欄で書いた「トホホ社会保険」(2005年5月10日)をまじめにしたようなものとなる題材は2つ。順次、紹介する。まず1つ目。最近の毎日新聞社説「禁煙治療 おせっかいの功と罪 広がる依存癖が心配」(2006年2月27日朝刊)から。この記事、やたら論理の飛躍が多い(後述する)。しかし、それが逆に社会保険の本質を考えさせるのである。
前置きはこのくらいで、本論を。同記事の全文は各自でお読みになるようお願いする。しかし、実は、すぐ要約できる。記事は最初、人は自由を目指してきたはずなのに、としたあとすぐ、「個人に干渉する施策が目につくようになった。禁煙治療も、その延長線上に位置づけられないか」とする。以下、その例として、交通事故対策のヘルメットやシートベルト着用の話が延々と続く。そのうえで最後の方で「喫煙家を自発的に減らすのが筋道だ」とする。
以上が内容である。どうも、禁煙治療が国のおせっかいである(=これをAとおく)ならば、よけいなお世話だ(=Bとおく)、ということのようである。A→Bを命題とするなら、それ自体には当方もさほど異存はない。問題は、前段のAだ。禁煙治療が国のおせっかい、だとする論証に疑問がある。筆者がこの記事の存在を知ったのは、とあるウェブサイトでのことだった(注1)。そのサイトでも指摘があり、同時に筆者も気づいたのは、この毎日社説は、議論の展開に必要な前提事実や仮定がかなり省略されていることだ。前述した論理の飛躍とはこのことである。
■「強制」それとも「社会連帯」?
前提事実は禁煙治療に関する事柄のはずである。主張の出発点だからである。ところが、記事にはこの言葉だけあって何の定義も説明もない。そこで、禁煙治療の最近の話題は何かと思いめぐらせれば、4月から公的医療保険の適用があることだ。それぐらいわかるだろうということなのかもしれない。そうだとして次に、仮定として、どうもこの記事は保険適用は国による強制、とりわけ法による強制と考えているようなのである。
まさに仮定が省略されているのでそう書いていないけれど、禁煙治療の保険適用と、それを強制だとみるのだと理解しないと、続く交通規制の例につながらないのである。従来通り自由診療なら、治療そのものを交通規制にたとえることはそもそもできない。誤解なきよう願いたいのは、何もこれを書いた毎日記者を批判するつもりはないことである。思うのは、社会保険をそのように強制ととらえる人は多いのかもしれない、ということである。
記事で、禁煙治療(の保険適用)をシートベルト着用などの規制と並べるのはアナロジー(類推)の論証方法である。健康や安全の予防、病状や被害の拡大防止などを共通のものと想定しているのかもしれない。こんな言い方は、とにかく書かれていないので、推測しながら補うしかないからである。また確かに、違反すれば法による制裁があるのも同じだ。医療機関が保険診療を拒否するのは考えづらいので、保険での違反は患者の保険料未払いなどか。いずれにせよ、社会保険全体は全国民強制加入というように法で規律されているのは事実だ。
しかし、何でも法でがんじがらめかというと、そうでもない。いくら保険適用されるからといって、治療を受けなくてもいい。その自由はある。それよりも、考えるべきは制度の本質である。全国民強制加入、国民皆保険は、病気というリスクを分散するため参加者が多い方がいいわけだし、民間保険と違い逆選択を避けることができる。全国民平等である。会員には釈迦に説法のような話である。
もっと本質論をいえば、国の強制ととらえるのでなく、国民が互いに保険料を出し合って病気に備える社会連帯だとみることができる。保険料を払うのは給付を受ける権利を確保するためなのである。国による強制加入も、保険の運営を権利者である我々が国にやらせている、国は保険の事務局であり、役人は事務局員だと考えればいい。保険の主役は権利者である国民であるという構成ができないか。そう思う。
■法は権利を守るための体系
もうひとつの題材が、北海道旭川市が国保保険料率を条例で明示せず、市長告示で定めたことを合憲とした最高裁判決である(同年3月1日=最高裁HPで読むことができる)。話がややこしくなるといけないので簡単にとどめる。国保は、ご存じの通り、保険料か保険税のどちらかの方法で徴収できる(注2)。旭川市は保険料方式だった。判決は国保保険料は保険料であり、税ではないという内容であり、ごくまっとうなだと考える。
ところが、東京発行新聞各紙の論調はどうも判決に不満なようである。保険料だと不透明だというのである。税なら憲法84条のいう租税法律主義が法律(この場合、条例)で率などを定めることを求めている。それが保険料だと条例でなく市長の告示で料率を決められるので、議会の民主的コントロールが及ばない、だから妥当でないといいたいらしい。しかし、これも変な話である。
料率決定の透明化など民主的コントロールが必要なことはいうまでもない。でも、それを税でなければできないわけではない。保険でも、前述通り、事務局である役人を権利者である国民が監視するのは大事である。方法はいくらでもある。実際、最高裁判決も料率の算定基準などは条例に書かれ、予算の議会質疑でコントロールはできると認める。その通りだと考える。
判決は受給権と保険料納付義務という社会保険の原理もきちんと述べている。それなのに新聞論調は、この原理をかなり軽視している。どうしても税で行くべきだというのだろうか。この問題は、年金の保険方式か税方式かの対立が反映していると筆者はにらんでいる。しかし、話が拡大するのでこれ以上触れない。。
結論である。毎日記事からいえること。法とは、その違反に対する権力の制裁があることをもって社会を統制するものではある。しかし、その法も国民代表の国会がつくる。法は同時に国民側からすれば我々の権利を守るための体系である。とりわけ社会保険の法は権利の法である。毎日記事は、後者への考えが及んでいない。
国保保険料をめぐる新聞論調で思うのはこうだ。国民に義務を課すとき、法に基準を定め、それに基づくのは当然である。そうでないと権力の行使が恣意的となるからだ。しかし、社会保険は税ではない。論調はやはり、社会保険が権利の体系である点をみようとしない。
もっとも、筆者がいっているのは、社会保険をこのように再定義しようという主張である。しかし、マスメディアが国民の大部分の声を反映していると仮定するならば、筆者はごく少数者となる。それが今回のトホホである。
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