ミューズリ(muesli)と呼ばれるシリアル食品がある。スイスの医師が考案した健康食で、小麦、カラス麦、大麦などの穀粒やレーズン、乾燥フルーツ、ヘイゼルナッツなどが入っている。英国アララ社のミューズリは人気があって、日本でも大阪のキタノ商事が輸入している。1975年創業のこのアララ社発祥の地が、自然淘汰の「究極の方程式」を考案した天才ジョージ・プライスが自殺したロンドンのユーストン駅近くにあるトルマーズ・スクエアなのだ。
浮浪者が住み着く立ち退き地区トルマーズに流れついただけに、アララの創業者2人も素寒貧だった。1974年からこの広場で寝起きしていたというから、キリストの啓示を受けて研究所を出て、無一物になったプライスと顔をあわせたかもしれない。ガスも電気も水道も切断されていて、工事現場の木屑を燃やして明かりと暖をとり、水は樋をつたって流れ落ちてくる雨水に頼り、地下に残っていた木のサウナバスで洗濯したという。
■流浪の身
アララの創業者はある日、道路わきの溝で2ポンド札を拾った。前年お目にかかった紙幣は5ポンド札1枚きりだから、これはかなりの幸運と思えた。友人のトラックを借り、青物市場に入場料2ポンドを払って乗りこみ、ごみ箱を漁って食べられそうな青物屑を荷台にかき集めた。トルマーズ・スクエアに帰り、それを売りさばいて小銭を稼いだ。これを元手に毎日市場に通い、1週間で稼ぎが1日5ポンドになった。そこで全粒小麦粉を買い、空家の古いガスオーブンでパンを焼いて売った(地域運動家が道路のガス栓をあけてくれたらしい)という。豆や米も売る雑穀屋になり、貯金もできた。
1年でとうとう空家を追い出されたが、別の空家に入りこむ。今度は50ガロンのポリバケツに、樫の柄杓をつかって穀粒をまぜあわせ、つくったミューズリをカムデンの業者に卸すようになった。やがて地方自治体の命令でその空家からも立ち退かされたが、貯めた金でカムデンの地下の店を借り、それからはとんとん拍子で会社を大きくした。プライスがトルマーズの敗者なら、彼らは勝ち組の出世頭だろう。そのアララのミューズリが、飽食した現代人のダイエット食というから、何という皮肉な光景だろう。
プライスがトルマーズに転がり込んだのも74年夏だ。IBMの元社員らしい短髪のスーツ姿から、長髪のスニーカー姿になっていた。首にはアルミの十字架が揺れている。時計もコートもない。みな人にあげた。
ゴールトン研究所で寝起きしていたころ、ある日、アル中の男が現れ、正面階段で放尿し、大声でわめきながら自転車の車灯を叩き割り、通りかかった学生の手提げカバンをひったくって中身をぶちまけたという。粗暴なこの男からその妻をかくまってやったトバッチリらしい。これでは研究所もプライスに退去を命じざるをえない。自分のねぐらを秘密にしながら、ひとり暮らしの老女の家や空家を転々とする流浪の身となった。
研究所は辞めた。「自分が携わっているたぐいの数理遺伝学は、人間の問題とさほど関係がないと感じた」のが理由だ。約一カ月間、掃除夫として働いた。掃除会社に雇われて、夜間に無人のオフィスを清掃する仕事だ。晩年のプライスが書いた履歴書では「キリスト教信仰に関連があるのでこの仕事をした。動作がのろいと上司に思われたが、珍しく手を抜かないので、やがて仕事の粗探しをされなくなった。夜間の仕事をする気が失せたという個人的理由から、その仕事もやめた」という。
■主なき部屋
トルマーズに身を寄せてからのプライスの人生は残り少ない。彼は廃墟で生活を立て直そうとした。数少ない友人のビル・ハミルトンへの手紙で「他人を助けるよりは、すこし自分の問題を片付けるよう心せよ、とイエスも望んでおられる」と書いた。別の友人への手紙では、誠実とはたぶん「人のもっとも根深い利己的な欲望」を認めることなのだろう、とも。彼はこのどん底の地で女に恋をした。結婚してアメリカに帰り、おとなしい信仰生活に入ろうと思ったらしい。が、すべてが遅すぎた。
クリスマスの直前、プライスはロンドン郊外のハミルトンの家に1週間余滞在する。家庭の温もりに包まれても、聖パウロの言葉が耳について離れなかったんじゃないか。「今われらは鏡の中に見るごとく朧なり」(コリント前書13章)。12月19日、年明けに再会しようと約してトルマーズへ帰った。が、鬱に落ちこむ。明けて75年1月2日、見かねた奉仕仲間が自殺防止の電話相談を受けろと勧める。4日後、一切を捨てた彼は、頚動脈を鋏で裂いて、人たることも廃した。
現場検証で身元が知られ、警察に呼ばれたハミルトンは、がらんとした主なき部屋に立ちすくむ。裸電球のしたにマットレスと椅子一脚、テーブル一台に数箱の弾薬箱しかない。あとはわずかな衣類とタイプライター、上下巻のプルーストの本。たぶん「失われた時を求めて」の圧縮版だろう。リノリウムの床に黒ずんだ血痕が残っていた。身ぎれいだっただけに、壁もマットレスも血で汚すまいと気をつかったのだろう。貴重な論文類は、安物のスーツケースと数個の紙箱、弾薬箱の上に散らばっていた。
彼の方程式はムッシュー・テストのガラス男のように、自身のあとを追い、自身にこたえ、自身に反射し、自身のなかで反響した。プライス方程式は、彼をどうどうめぐりの檻に閉じ込めたのだ。カムデンの教会はこの自殺者の葬儀を拒んだ。火葬場に立ち会ったのはメナード=スミスとハミルトンのほか、赤ら顔のみすぼらしい男たち6人ほどにすぎない。学生新聞「イエスとのホットライン」がその死を報じたが、記事は悲しいジョークで締めくくられている。故人にはイエスとのホットラインがあった、と。
汝の内を慎み、汝の外を閉じよ、知多ければ敗を為さん。
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いつか、このジョージ・プライス伝を書きたい。いまは雑誌編集の仕事が忙しくなってとてもその暇がない。この「先見創意の会」へのコラム寄稿もまた、これを最後にしばらく休載させていただきたい。雑誌に専念しますのでご容赦ください。ご愛読ありがとうございました。
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