旧厚生省の官僚として社会保険庁長官などを務め、健保連副会長のとき日歯事件で有罪判決を受けた下村健氏が亡くなった。75歳だった。
この下村氏はかつて、健保1割負担を導入したとき厚生省の中心的な部署にいるなど、健保連時代も含め、いわば医療保険制度の歴史とともに歩んできた人物である。政府・与党、日医と渡り合うのが健保連首脳の仕事だから、確かに制度に精通した人材が求められたのではあろう。しかし、最後は事件で終わった。それだけでなく、下村さんの在任中、健保は負担増ばかりが目だった。そもそも健保はサラリーマンの健康を守るためにある。「天下り」官僚主導による運営でなく、民間企業、サラリーマン自身が自分の問題として健保を考えていくことが重要である。下村さんの挫折と、死は、そういう意味があると思う。
下村さんは、4月末に亡くなった。その告別式が連休中の5月3日、東京・南元町であり、当方も出席した。生前、つきあいがあったからだ。ただし、事件と罪を弁護したり、正当化したりするつもりはない。念のため、あらかじめ明記する。告別式に出かけたもうひとつの理由は、失脚した人だからこそ逆に参列しようと思ったからでもある。
■医療保険制度の盛衰とともに歩んだ人物
参列者は案外、多かった。総数200人か300人か。歴代厚生事務次官の顔もあった。目を引いたのは、やはり日歯(連)事件関連で名前が出た橋本龍太郎元首相だろう。弔辞やあいさつなどはなかった。その代わりだろうか、本人のいる前で橋本氏の弔電が読み上げられ、奇異な感じではあった。焼香を済ませると早々と退出した。かつて厚生省汚職事件で有罪になった岡光序治元事務次官も姿を見せていた。
下村さんと昭和31年(1956年)厚生省同期入省の森幸男氏(元環境事務次官、東宮大夫)が弔辞を読んだ一人であった。その中で、入省同期のうち下村さんが最年長であり、各種会合の手配をすばやく行うなど「面倒見がよかった」と振り返った。下村さんは最後の旧制一高から東大文学部という経歴である。学生のとき病気をしたようで役所に入った年齢が遅い。森氏は弔辞で「その面倒見のよさが晩年の不幸な結果をもたらしたのか」と事件に若干触れた。
面倒見のよさは、披露された弔電でも紹介された。下村さんは広島県出身であるものの、戦争末期、旧制徳島中学の生徒だったそうだ。父(養父)が徳島の連隊長だった軍人で、中学同期生の弔電は「連隊長の子息であることを意識させず、常に多くの仲間に囲まれていた」と人柄をしのぶ内容だった。筆者は下村氏が厚生省官房長のとき同省担当だったので、それ以来のつきあいである。人脈が広く、面倒見がいいというのは同感である。
こうした中で、下村さんの人生をもっともよくあらわしたのは、厚生省後輩の北郷勲氏(元厚生省薬務局長、国保中央会理事長)の弔辞だろう。役所での勤務のほとんどが医療保険制度にかかわる部署だったと紹介し、「昭和30年代、国民皆保険ができたとはいえ、その運営には多くの困難があり関係者が苦労した。(制度改革の)当時の中間決算として、健保本人1割負担が導入された。それを進めたのが吉村仁・保険局長(のち事務次官)、下村保険局審議官だった」と回顧した。
吉村氏とは、日医のドン・武見太郎と渡り合った名物官僚である。その下に下村さん、さらにそのまた直接の部下が前出の岡光氏(当時、保険局企画課長)である。いまから見ればそうそうたる顔ぶれである。時代背景を説明すれば、下村さんが入省してまもない昭和36年(1961年)、国民皆保険が達成される。昭和48年(1973年)には老人医療費無料化が実現する。ところが、そのとたん、オイルショックに見舞われ、医療保険財政がおかしくなる。
そして、昭和59年(1984年)、健保本人1割負担である。公的医療保険の中核である健保は10割給付が本来の原則である。それなのに、いわば堤防に穴が開いたのである。その施策を進めた中心的な位置に下村さんはいたのである。これ以降、2割負担、3割負担と負担増が拡大する。役所を退官して船員保険の仕事をしたあと健保連に移った。医療保険の盛衰とともに下村さんは歩んできた。
問題は、この健保連時代である。実は、下村さんの副会長は適任ではあったのである。当方は、医療制度改革をめぐるシンポジウムで司会を務めることが何度かあった。保険者側代表のパネリストとして下村さんがいつも登場した。医療保険制度問題での論客だからである。そりゃそうだろう。自分で1割負担をやってきたのだから。さらに米国、ドイツ、フランスの医療や、保険制度の情報も詳しかった。
そのほか、健保連の定期大会や記者会見でも常に議論をリードしたのが下村さんだった。論ばかりでない。制度改革は生の政治である。政府、自民党、日医の動きについて情報収集は欠かさない様子が話しぶりからうかがえた。健保連の会長は民間企業出身者であっても、実質は副会長の下村さんが動かしていたといってよい。
仕事のひとつが生の政治折衝であるということからわかるように、政府・自民党はもちろん政治力では日本有数の団体である日医を相手に交渉するということは、制度や現実の政治過程に通じた人材でなければ健保連運営はできないという発想が厚生省はもちろん、健保連側にもあったのだろう。
正面から言い直すと、健保連運営をするため制度や現実の政治過程に通じた人材が必要なのである。それ自体はいい。医療保険にかかわった厚生官僚OBである下村さんはそういう人材だった。しかし、逆は必ずしも成り立たない。官僚OBでないとだめだとしても、では官僚OBだからといって運営が順調とはかぎらない。実際、下村さんがいた健保連が順調だったとはいえない。
■健保を成り立ちから考える
当方が知っている限りでも、高齢者医療制度改革をめぐり、東京・渋谷に集まったIT関連産業の健保組合から下村さんら健保連執行部に激しい突き上げがあった。健保連執行部が考える突き抜け方式でなく、自民・日医が唱える独立方式を選ぶべきだとさえ主張した。
若い成長産業の健保組合からすれば、自分たちのおさめる保険料のほとんどが自分たちの健康には使われず、高齢者医療費の不足分にもっていかれるという反発である。厚生省主導の制度改革に健保連執行部が追随してしまうのではないかという疑念である。
IT産業はなお余裕があったかもしれない。しかし、産業全体が不況のため苦しい経営を強いられた。それで企業は何をしたか。保養所などの売却などが相次いだのは記憶に新しい。従業員の福利厚生を切っていったのである。もともと健保連に対する参加企業の関心は従来、あまり高くなかった。個々の組合でもその運営者は企業の出世コースから外れたような人が担った。
関心がなかったのは、これまで好況不況を繰り返しても、保険料を負担できたからだ。それがいよいよ負担感が増大し、不満が強まった。官僚OBが天下りで健保連にいることができたのは、まさに企業に関心が薄かったという条件があったからである。ついに、その条件もなくなってきたのである。
こうした制度がゆらぐときこそ、基本に戻る必要がある。社会保険は官僚主導でできた制度ではある。しかし、勤労者と企業が互いに支えあって健康を守るという基本理念を出発点に、社会全体に連帯を広げるという思想が根本にある。高齢者医療費にせよ、国保にせよ、結局、医療保険の財政の中核は大企業が多い健保が担うことでほかを助けるという構造が続いてきた。
企業に不満がたまったとき、官僚OBである下村さんにできることは、こうした基本理念を理解してもらうことしかない。下村さんは、健保連機関誌である月刊「健康保険」で「保険主義の王道」という対談記事を連載していた。そうした社会保険の意義を広めようとしたのだろう。筆者の感想では、役人の回想録みたいな印象も強かった。どこまで伝わったかはわからない。
その対談の効果かどうかは別に、下村さんの時代、健保連傘下組合の中にも健保を成り立ちから考えようという動きが出てきたのも事実だ。組合同士が連携して医療機関情報の収集と提供をしようという試みも出てきた。サラリーマンのための健保なんだからサラリーマン自身が担うという意識である。
当の下村さんも同様に意識していたと思われる証拠がある。筆者が司会をしたシンポジウムで、下村さんは「厚生労働省は『健保組合は政府の代行機関だ』みたいなことを言うわけです。私は、それは間違っていると思うのです」という発言をしている(2002年9月、医療経済研究機構主催「医療制度抜本改革とは何か」)。
では具体的に何をするかは、この場では言っていない。いま思えば、どこかで聞いておくべきだった。それにしても在任10年に及んだのは長すぎた。腐敗の温床となったのだろう。しかし、いえるのは、この官僚OBの挫折を機に、健保連が名実ともに民間企業出身者メンバーで運営するべきだとわかったことではないか。
一足飛びにいかなくとも、そうするべきだ。民間企業出身者であっても制度と政治に通じた人材を自ら育てるべきだ。「保険主義の王道」といっても、サラリーマンあっての王道なのだから。下村さんの死は、そういう方向性を明確にしたのではないか。
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