社会保険庁の国民年金保険料不正免除問題のことは、どうも多くの国民にとってはわかりづらいようである。低収入の人について勝手に免除した。それが不正だと問題となったので、正式に手続きをし直して免除することになる。結局、免除するのである。「それで長官が責任を取れ、というのはわかりづらいんですよ」と、最近、話を聞いた野党のある国会議員が語っていた。
当方は長官の責任はあるという考えではある。しかし、なるほど年金の仕組みが複雑だから、多くの国民は理解しにくいかもしれない。そこで、この問題のそもそも論を提示したい。それは社会保険庁の組織、制度の本質である。それがわかれば、問題の所在がはっきりする。
おおまかに3つのテーマを立て、それぞれ「初級編」で問題の焦点を絞る。そして、より深く考えるための材料について「発展編」で簡単に触れる。本サイトの読者は専門家が多いので釈迦に説法であろうけれど、議論を深める手助けとなれば幸いである。
■二重の意味で公僕
(1)二足のわらじ
<初級編>
社会保険庁という組織は、2つの顔を持つ。一言でいえば公務員の組織という顔と、保険料を徴収し、年金・医療の社会保険を運営する組織(医療保険で言う「保険者」)であることだ。何を当たり前のことを思われるかもしれない。しかし、これが本質なのである。最後まで聞いてほしい。話をわかりやすくするため、医療保険を例にする。
社会保険庁は中小企業が加入する政府管掌健康保険(政管健保)を運営する。大企業の場合、自前で健保組合を持って運営しているのに対し、中小企業は余力がないので政府が代わって運営する。政管健保など社会保険は、国家の強制力で加入を義務づけるとともに、加入者の側からいえば、加入者同士が連帯して病気や老後に備える。そのために加入者は保険料を託し運営をさせている。
以上をまとめると、社会保険庁職員は、納税者(国民)からすれば公僕であり、年金・医療保険加入者(国民)からみても「僕(しもべ)」である。二重の意味で公僕なのである。職員の給与は税金から出すべきである。預かっている保険料を自分たちの無駄な福利厚生に使うのはおかしい。なお、大企業の健保組合の例があるので、理論上、社会保険庁を民営化することもできよう。保険者だけの顔とする。その場合、保険料で職員の給与などをまかなうとしても、その分ますます年金・医療給付費がしわ寄せを受けるのだから、間違ってもマッサージ機などに無駄使いは許されない。
加入者は社会保険において主権者であり、社会保険庁はその「しもべ」なのである。村瀬長官は加入者を「お客様」と呼んでいるようだけれど、それは誤りなのである。このように理解したとき、社会保険庁は、国民年金未納・未加入者をどうしたらいいのか。民間の生保や損保のごとく顧客獲得作戦ととらえるのも誤りである。社会保険の意義を説明し、国民全体で支え合う国家の仕組みであるので、加入しなければならないのだと説得して回らなければならない。
■武見太郎が喝破
<発展編>
ここでは用語の説明などは省く。専門家が多数おられるからわかるだろう。実は、社会保険庁のことを「二足のわらじ」と喝破したのは、日本医師会のドンと呼ばれた武見太郎である。筆者はこれを前回取り上げた故下村健・元社会保険庁長官から生前に聞いた。どういうことかというと、昭和30年代、社会保険庁が発足していない時代、政管健保の運営を厚生省保険局自身が行っていた。そして中央社会保険医療協議会に厚生省保険局長が保険者代表として委員になっていた。
政府の高級官僚である保険局長が中小企業サラリーマン代表の顔で出てきたというから驚く。医療保険政策、ひいては実質的に医療政策そのものの立案を行うのが保険局であり、その最高幹部が局長である。これではサッカーの審判が一方のチームの選手になるようなものだ。それをとらえて武見は厚生省に対し「君らは二足のわらじをはいている」と非難したという。そこで政策立案部門から現業部門を切り離し、つくったのが社会保険庁というわけだ。実態として、厚生官僚が自分たちへの批判に便乗して新たな組織とポストをつくった側面があることに留意されたい。(注1)
社会保険庁になったとしても、政府の一部門(厚生省の外局)であると同時に保険者である(年金と政管健保)という「二足のわらじ」に違いはない。保険料の無駄遣いは、税金で給与をもらっていながら、保険運営事務局である保険者の立場から保険料の「流用」はできるという理屈で行われた。これについては橋本内閣で保険料を使える法律をつくってお墨付きも与えたのだけれども、あきれた無駄使いが明らかになった。結局、自分たちの都合のいいように「わらじ」を履き分ける体質があるということである。
■制度自体が「二足のわらじ」となった国民年金
(2)なぜ悪いのか
<初級編>
不正免除は、一見、低所得者のためになるように思える。しかし、そうはいえない。みながみな保険料を払わないのでもない。中には払うという人もいるかもしれない。それなのに一方的に「あなたは低所得だから免除しておきます」というのは加入者の自由意志を無視している。
何よりも実利として、ちゃんと払っている人に響くのである。年金はその年に集めた保険料をそのまま現在の高齢者に給付する賦課方式を取っている。ということは国民年金の保険料免除者を増やすことは保険料を払って年金に参加する人数が減ることだから、国民年金を受け取る側への給付額を全体として減らす方向に働く。
実際は、国民年金は、サラリーマンの厚生年金などとともに全国民共通の基礎年金という形で支払われるので、国民年金保険料が集められなければ厚生年金の保険料もかきまぜて、さらには年金とは本来関係のない税金を合わせて財源としている。つまり自営業者らのための国民年金のために、サラリーマンの厚生年金も協力して保険料を出してくれている。したがって国民年金保険料の免除が増えればサラリーマンの負担増というしわ寄せが出ることにつながる。
低所得だからといって一方的には、保険料免除を受ける人が、こうした仕組みを知ったら何と思うだろうか。このように社会を構成するメンバーで互いに支えあう仕組みが社会保険制度である。それを運営する社会保険庁が制度の本質を説明をしないで免除をするのは、組織としての使命を果たしていないことになる。
<発展編>
不正免除は年金制度自体を弱体化させることになる。免除者は将来の年金給付がゼロになるのでなく、満額の3分の1だけもらえることになる。現在、国民年金は月額で一人約6万7千円だから、その2万2千円程度の給付を受ける。これは現在、国民年金給付をまかなう財源は保険料が3分の2、税金(国庫負担)が3分の1という割合であるところからくる理屈だ。年金に充てる税金とは国民全員が負担するのだから、税金充当分だけは保険料免除の人だろうとも年金を受け取れるというわけである。
しかし、よく考えると、もしそうした免除者がずっと免除のままなら、これは月額2万円余による一種の生活保護対象者をつくっていくようなものである。(注2)そうなると、これはもはや社会保険ではない。税で手当てする「福祉」である。税での手当というのは、年金制度でいえば税方式である。国民年金が社会保険方式と税方式の混合となっているためこんなことが起きる。制度までがある種の「二足のわらじ」なのである。だから社会保険庁だけを責めるわけにはいかないものの、免除を増やすのは社会保険から税へシフトさせるので、社会保険庁が社会保険制度を崩そうとするという矛盾である。
なお、免除を独断で進めたことについて、国家(社会保険庁)が貧しい人のため保護者となっているという理屈(パターナリズム)も成り立ちそうである。しかし、実態は組織防衛のための収納率アップの方便であった。「護民官」のごとくふるまう表の顔と、自己保身という裏の顔の使い分けとも言える。あるいは、これも「二足のわらじ」の変形とも。
■「民間」が錦の御旗という思考停止
(3)長官の責任
<初級編>
では長官に責任はないのか。以上のように制度を説明してきたものの、同じトップの責任でも日銀の福井総裁のようなわかりやすさがないのは認める。しかし、である。だからといって不問に付すのは制度のためよくない。マスコミ論調でも長官擁護論が目立つけれど、問題がある部分は指摘しておきたい。
たとえば日経新聞2006年6月29日、20日付朝刊「社会保険庁 深まる不信」の上下2回連載記事で、長官責任論に関連して「今回の不正では未納率改善を掲げる村瀬流のノルマ手法が原因との指摘も出たが、この程度は民間のみならず、公的機関にも存在する」と書いている。(注3)
しかし、だから何だというのか。民間に存在する、および他の公的機関でもあるからどうだというのか。大事なのは社会保険庁にどのように当てはめるか、だ。それは何も書かれていない。当方もノルマを悪いというのではない。問題は、課し方なのである。
保険料納付率を上げるためには、未納・未加入の国民を説得する必要がある。それは社会保険制度の原理を説いて、社会連帯への参加・復帰を呼びかけることである。単に営業して数を集めればいいものではない。そこがわかっているのか。どうも紙面からはうかがえない。何より、長官自身が社会保険の原理原則を、心の底から、理解しているのか疑わしい。
国会会議録検索システムで村瀬長官が不正免除についてどう発言しているか調べると、2004年11月、衆参両院の委員会しで、納付率アップの方策として何度も「免除対策」を挙げている。具体的にそれ以上は言及していない。しかし、これが何を意味するか。いわゆる分母対策として免除手続きの促進を意味しているのは間違いない。正式な手続きなら問題はない。しかし、「免除」を言うあまりに、現場が「不正免除」に踏み込んだのかどうか。長官発言との因果関係が解明されるべきである。
少なくともトップとして、何も知らなかった、悪いのは現場であると言って済ませるのは、このように「免除対策」を何度も掲げている事実がある以上、疑問が残る。何らかの責任と反省が必要ではないか。
<発展編>
社会保険庁の労組を念頭に置いてだろうか、改革をしたくない勢力が現場にいて、長官の責任を問うと、そういう勢力を喜ばせるだけだという説があるようだ。報道によると、小泉首相がそう言っているらしい。郵政民営化において抵抗勢力を設定して、それを悪者にする手法に通じる。いわゆる地方事務官制度の名残があって現場は独立王国を築いているとも言われる。
そこで、当方は、社会保険庁の労組が加盟する自治労の担当者の話を聞いた。国家公務員の労組がなぜ自治体職員の自治労なのか。身分は国家公務員、指揮監督を都道府県知事から受ける地方事務官制度(「二足のわらじ」!2000年、国家公務員へ一本化)だったため、労組はいまも自治労なのである(同じく「二足のわらじ」)。
その自治労の国費評議会という部署が社会保険庁労組の担当である。芳賀直行事務局長を訪ねたところ、長官の責任について「いきすぎたノルマが原因だとわれわれが直接、責任を問う立場にない。われわれは(目標を達成する)実施庁であり当事者なのだから。国民の信頼を裏切ったとの批判は真摯に受け止め、あらためて改革に邁進する」とのことだった。
組織論一般論としては、トップも含め職責に応じた責任はあるとは言う。しかし、自分たちから声高に言えないということらしい。集中砲火を浴びていて、それに耐えるのに精いっぱいなのだろう。
公務員と保険者、税と保険、地方事務官など、「二足のわらじ」が錯綜し、その都度、都合のいい部分をつまみ食いした結果、自らのアイデンティティがわからなくなり、混乱したのが社会保険庁ではないか。長官は損保出身だから、民間保険の手法と社会保険が混在する。どこまでも「二足」がつきまとう。ここは原点である社会保険とは何か、それを確認しておくことがすべての基本だとだけ言っておく。
(注1)
武見太郎の話は、下村氏が故人となり、検証が困難となった。しかし、同趣旨のことは、やはり本欄で以前、紹介した『戦後医療の五十年 医療保険制度の舞台裏』(有岡二郎。1997年。日本医事新報社)に出てくるので参照されたい。著者の有岡も故人で、当方の師匠であったけれど、内容は確かである。
(注2)
2006年6月16日の衆院厚生労働委員会で、民主党の逢坂誠二氏がこの点を指摘していた。
(注3)
興味のある方は日経記事原文を読まれたい。なお、この引用部分は前後の文脈の影響を受けない。これだけ独立させて論じることが可能である。
|
|