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コラム
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「医療刑事訴訟のあり方」 平岡 敦
(掲載日 2006.12.26)
 福島県産婦人科医逮捕・起訴事件など、医師や看護師を、業務上過失致死傷罪で、逮捕・起訴する事件が続いている。

 しかし、もともと高度の危険と隣り合わせの医療行為について、刑事上の過失を問うべきなのか、また、問うことができるのだろうか?

■過失犯の成立要件の変遷

 犯罪は、故意犯と過失犯に区別することができる。殺人罪など故意犯は、行為時に結果(人が死ぬ)を認識している場合に成立する。これに対し、過失犯は、行為時に不注意により結果の発生を予見しなかった場合に成立する。旧来、過失犯は、このように単純に理解されていた。

 しかし、自動車時代の到来が、過失犯の成立要件も変えてしまう。もともと自動車の運転には危険がつきものなので、予見可能性の有無で判断していたのでは、みな有罪になってしまう。また、個々の自動車事故について、ドライバーが予見できたか否かを問うていたのでは裁判が煩雑になる、ということもあっただろう。

 そこで、行為を類型化し(脇見運転、スピード違反など)、その行為に該当すれば過失犯成立という基準化が進んだ。これにより、いつの間にか予見可能性の判断がいい加減になされるようになってしまった。

 この傾向は、公害問題でさらに進んでしまう。悲惨な公害被害者を救い、悪徳企業を制裁するためには、予見可能性を問題にしている場合ではない!というわけで、予見可能性は単なる危惧感や不安感で足りる、などという判例まで現れた(森永ヒ素ミルク事件)。

 「何となく危ないなあ」と思いつつ、そのまま行為して結果が発生すれば、過失犯になってしまうのである。これを医療に当てはめると、「この手術をすると、ひょっとしたら死ぬかも」と思って手術を行い、現実に死んだら、過失犯になってしまうのである!恐ろしい話である。

■医療刑事訴訟の現状

 現実問題として、医療刑事訴訟の現場では、予見可能性が軽んじられている。検察官や裁判官は、科学的な意味での予見可能性と刑法上の過失犯の成立要件としての予見可能性を、ともすれば混同して語っているように見える。

 医療行為には一定の危険性がつきものなのだから、常に科学的な意味での予見可能性はあるのである。だから、そこを混同されてしまっては、医療刑事事件では、予見可能性は常にあることになってしまう。

■新しい判断基準

 さすがに、それではまずいと考える人もいる。すなわち、もともとの予見可能性を中心とした過失犯の理論に戻すべきとし、ある程度高度(結果回避行為を動機づける程度)の予見可能性を必要とする論者も多い。また、予見可能性の程度が、結果回避行為をしたか否かの判断に影響を与えるとする議論もある。

 薬害エイズ訴訟帝京大ルートの判決は、その代表例である。すなわち、この判決は、非加熱製剤の投与により患者がエイズに感染することは、当時の知見ではまだ確実に予想できることではなく、その予見可能性の程度は低いとした。その上で、被告人が、非加熱製剤を用いることによる治療上の効果・効能とエイズ感染の危険性を比較衡量して、また、非加熱製剤とクリオ製剤の効果・効能の比較衡量をして、非加熱製剤を用いることを決断したとしても、当時のエイズ感染に関する予見可能性の程度を前提とすると、被告人が過失を犯したことにはならない、としたのである。

■あるべき医療刑事訴訟の姿

 思うに、医療従事者の行う治療行為は、そのもたらす効果・効能、逆に発生する副作用、患者の状態、患者・家族の希望、複数の治療法の比較、当該医療機関の施設・人員など種々の状況を総合的に判断した上でなされるきわめて高度かつ専門的な行為である。

 このような行為について素人である司法機関が過失の有無を判断するのは、本来、慎重であるべきだ。したがって、医療従事者の行う治療行為に対する刑事上の処罰は、ある程度、謙抑的であるべきだろう。

 ゆえに、そこで要求される予見可能性は、科学的な可能性とは区別され、当時の医療水準を前提に、当該治療行為を回避することを動機づける程度の高度のものが要求されるべきである。

 そして、仮に予見可能性が認められるとしても、その認められた予見可能性の程度を前提として、当該治療行為の効果・効能や他の治療方法との比較など諸々の条件の下で、当該治療行為を行うことの正当性を検討して過失の有無を判断すべきであろう。
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