(掲載日 2008.01.22)
上海から、蘇州、無錫をとおり、揚子江沿いに続く南京への道。
2007年、11月21日、日中国交35周年事業の一環として、アジア癌情報ネットワーク会議を南京市で開催することとなり、私は、日本の癌研究者たちとともに上海空港から、この道を南京へとむかっていた。
揚子江デルタ地帯として経済発展を推し進めるこの地域には、ビルの林立する地方都市が点在する。しかし少しはずれると、田園風景が広大な大地に果てしなく続く。
幾筋もの小さなクリークと、その川筋に連なる人々の慎ましやかな生活。土塀の朽ち果てた民家の軒先にかかる洗濯物。この揚子江の流れ沿いに、悠久の人々の暮らしの営みが続いてきている。
かつて、盧溝橋で端を発した日中戦争は、上海戦に突き進んでいった。日本軍は、蒋介石率いる国民党軍の予想外の抵抗とクリークの地形に阻まれたが、東京裁判で絞首刑となった松井石根大将は、関東軍参謀、石原莞爾の制止を振り切り、内地からの補充兵を募り、南京陥落をはかるため、大本営には無断で、この地から、揚子江沿いに南京進撃に向かった。
1937年、11月20日、現状追認のような形で大本営が設置された。 陸軍第9師団三十六連隊もすでにこの地をたって、揚子江上流の南京へとむかっていた。
そのなかのひとりには、私の父もいた。
あれから、ちょうど70年。
この風景を、70年のときの連なりの向こうで、父はどうみたのか。そして、南京の街での記憶とともに、この風景を戦後の長い時間、どう胸にしまって生き抜いていたのか、窓の外の風景に涙が溢れそうになる。
今回の会議は、中国の他、韓国、タイ、ベトナム、モンゴルからも各国のナショナルセンターの首脳陣が参加して、まさにアジアの共有基盤形成の構築のための会議となった。
サイエンスなのか国際交流か、はたまた、アジア仲良しクラブかと揶揄されながら、「大東亜共栄圏の何が、どうまずかったのかそれがしりたい」そう誤解を恐れずに呼びかけ続けてきたことにようやく形が見えてきた。
2002年ネイチャーにアジア人のデータベースをつくるためには、まず人体の個人情報の保護の枠組みを作るべきであるという提唱を始めてから、もう5年半の月日が流れた。
アジア人によるアジアのデータの累積も弱く研究インフラもなかったのだが、ここにきてアジア各国もこうした実証的で体系的な学術共同体への参画の意義を共有できることとなった。
そしてなによりも小泉政権下の最悪のアジア外交シナリオから抜けだせた意義は大きい。温家宝・安倍会談の成果として日中医学協力構想として走りだしたプロジェクトに、「あの南京の街で、アジアの未来への架け橋を提唱したい。」
そう思い切って提案してみたのには、こうした大文字の国家や学術という大看板の話の裏に秘めたわけがある。歴史の大きなうねりには、無数のひとびとの人生が絡み付いている。
戦後の長い時間、戦時中の記憶から立ち直れなかった父を憎んだ落とし前をつけたくて、パリからの取材の帰りにこの南京への道をはじめてたどった。
偶然ある老婆に出逢った。南京戦で、家族を殺され、その後の苦難を生き抜いたひとだ。幼いカラダを日本兵に強姦もされた。「日本人を絶対に赦さない」そういわれた。
彼女との息の詰まるような対面に、傍らにいた老婆の妹がその場をとりなすように切り出した。「謝ってもらってもしょうがないし、なにか日中で一緒にできること探し出せたら」私も正直に答えた「だって私、謝りようがないもん」そういうしかなった。
別れ際に老婆は「人間は生き延びることが一番意義があることだ。だから、こうやって生き延びてきた」そう凛として私を見つめた。
それからだった。日中でできること。探し回った。算数オリンピック、科学コンテスト、そして、たどり着いたのが、日中の癌共同研究だ。
南京と20年以上地道に共同研究をして人材育成をしている研究者(愛知がんセンター田島和雄所長)をみつけたのだ。この3年、お金はなかったが、東大の三宅淳教授が、アジアハイテクネットワークとして、この研究プロジェクトを資金面、人材面で支えてくださった。(Nature 450,772-773, 2007が “ Asia plans first cancer network”として詳しく報じている)
日本のアジアでの行く末を憂う多くの人たちが、この日中癌共同研究を両国の政府間合意に引き上げるためにかかわってくださった。経済効果などまだまだ望めぬテーマであるにもかかわらず、人と人とのささやかな繋がりが、支えてくれたと感謝している。
南京での会議では、南京宣言(※) を採択し、今後の共有基盤形成を誓いあった。
今後は、混沌とした中国を国際プラットフォームに乗せ、日本と中国が連携をしてアジアの標準化を進めるという未来図のもとに、情報の標準化を図らねばならない。人の体に纏わる情報は、人体から採取される情報もあるが、口伝てに聞き取らねばならない情報もある。
医療情報を科学的に意味のあるものとして、比較可能なデータに落とし込むための課題は多い。医療概念のある程度の標準化も必要であろう。そのためには人々がどのようにしてがんに纏わる情報を得ているのかの基礎調査が必要であると考えている。
私はまず、日中の共有可能ながん予防情報基盤整備の足がかりとして学校保健との連携を図るつもりだ。
子どもへのがん予防教育の共有化とその情報提供により、周囲 親、教師、子ども本人にどのような、行動パターンの変化がおき、今後どのようなことが望めるかを検証しつつ、社会全体のPDCAサイクルとして、使いまわせる情報ルートの基盤整備が必要と思っている。
(予防情報の提供により人々の行動にどのような変化が起こったかというアセスメントは、アジア人のデータベースとして大事な基礎資料になるはずである。)
この南京会議をおえ、暮れも押し迫ったころ、いよいよ始まる日中共同研究の合意のため、日中癌対策訪中団として、北京をおとずれた我々の歓迎の晩餐の席で、中国医学科学院の劉徳培院長は、にっこりと微笑みながらこういった。
「日中両国は2千年以上も前から長くいい付き合いをしてきました。ただ、ここ80年ほどの間だけちょっとうまくいかなかっただけなのです」
棘を含みながら、しっかりと手を握ろうとする中国のしたたかで、しなやかで、しぶとい、つよさに、私は、3年前の老婆の言葉をもういちど思い返した。
「生き延びることがなによりも大事なの」
(※資料)
1 Governments and Non-Governmental Organizations Must Work Together in Asia for Successful Cancer Control
2 We Need to Create a Practical Network to Generate a High -Technology Database
3 Taking Full Account of National and Cultural Sensitivities We Should Continue with Efforts in Cancer Education, Especially of the Next Generation
4 *Make the Case for Investment in Solving the Cancer Problem :
An Investment in Economic Health!
5 *Consistently Deliver Compelling Messages which can be Tailored to all Partners in Different Asian Countries?
* From the Washington Cancer Declaration
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