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コラム
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(掲載日 2008.02.19)

 表題にあるうちの『花と龍』は歌や映画で有名だろう。カラオケで当方も歌う(注1)。 戦前、石炭積み出しで栄えた北九州・若松港を舞台に、荷役業「玉井組」の組長・玉 井金五郎が活躍する物語である。

 金五郎は実在の人物であり、その長男である作家・ 火野葦平(1907-60。本名・玉井勝則)の同名小説『花と龍』が原作となって いる(もともとは昭和27年、読売新聞連載)。

 このほど、きっかけがあって、この小説には「日本の近代化と個人」というテーマが横たわっているのを再確認した。また、『花と龍』をめぐって、近年、有名になってきたのは舛添要一厚生労働大臣や、アフガンでの医療活動で知られる中村哲医師に縁があることだ。それやこれや、気付いたことを記したい。

「葦平資料の会」会長が死去

 上述の「きっかけ」とは、当方のかつての取材先が亡くなったことである。「火野 葦平資料の会」会長の鶴島正男さんという方である。葦平の地元、北九州市若松区で 高校教師をしたあと、葦平の業績再評価や資料保存活動に携わってきた。

 しかし、06年 暮れ、80歳で亡くなった。そして、ほぼ1年後にその追悼文集(注2)が完成し、 08年1月、当方にも送られてきたのである。

 当方は10年余り前、勤めていた新聞 社で西部本社(福岡)勤務となり、鶴島さんを知って訪ねたことがある。その縁で、 資料の会の会員にもなったからである。

  小生が福岡暮らしをした96年に、『花と龍』が講談社から文庫本(上下2冊)で 復刻発売された。それを読んだところ、港の男たちの切った張ったよりも、政治の話 に興味をもった。というのも、玉井金五郎は戦前の若松市会議員でもあったからだ。

 『花と龍』には選挙の場面など戦前の政治についての話がたくさん出てくる。当方 は、鶴島さんはじめ地元の人たちに取材し、それらを所属新聞のコラムで「『花と 龍』の政治学」と題して書いた(注3)

 金五郎が八幡製鉄所の汚水排出、つまり今でいう公害問題を市会で取り上げていたことも知って興味深かった。これは、歴史に詳しい地元の共産党北九州市議が昔の資料を発掘してわかったことだ。

■刺青政治家

  小説で葦平は、父・金五郎が議員になったのは、「働く者の代表」だからだとして いる。公害追及も庶民の側に立ったことをうかがわせる。

 小説で金五郎が「市会を市民の手 に」と題して演説したとある。そして、金五郎といえば、題名どおり龍の彫り物で知 られる。小説でも何度も出てくる。政治家が刺青をしているのでなく、刺青をした男 が政治家になったのである。

 今回、小説を読み返したら、金五郎ら若松市会議員一行 が東京に出張し、衆院本会議(昭和5年、第58帝国議会)を見学した場面で気付い たことがあった。

  当時、民政党、政友会の二大政党時代で、政権は民政党の浜口雄幸内閣(昭和4年発足)である。金五郎らが傍聴席から議場を見たところを、「正面には、民政党総裁、浜口雄幸首相、安達、俵、小泉、町田、などの諸閣僚」と書いている。

  「小泉」とは小泉又次郎逓信大臣、つまり純一郎元首相の祖父である。又次郎はとび職人 で、やはり刺青が有名だったとされる。

  この衆議院見学の場面は、若松の「大親分」として知られた侠客・吉田磯吉が同時 に民政党衆院議員でもあったことに関わる。

 吉田が金五郎を見込んでいて、その陣営 は金五郎を民政党に入れようと勧誘するも、金五郎は磯吉側に抵抗し、地方自治体 政党の対立は不要と断る。実際、金五郎は市会議員としては二大政党に属さず中立で 立っていた。

  葦平が『花と龍』で政治も多く取り上げたのは、若松の親分たちや葦平も、民意に 基づく政治力の重要性をわかっていたからだろう。

 小説の問題提起だと思うことは、暴力で (また軍部でも)人々を統治することはできず、言論による政治が大事だということ でもあろう(もちろん史実は、浜口首相の運命が暗示するように、政党政治が崩壊 し、戦争へと進む)。

■若松の人材たち

  今回、鶴島さんの追悼文集で興味深い話をいくつか見た。小説にも出てくる昭和5 年の若松市会議員選挙で金五郎は改選された。

 鶴島さんの文章(地元の西日本新聞に寄稿したコラムなど)によると、この選挙で、実は、舛添要一厚生労働 大臣の亡父・弥次郎氏も出馬したのだという。弥次郎(以下、敬称略)は戦前、若松 で活動したそうだ。

 金五郎と対立する吉田磯吉陣営から立った。応援弁士を磯吉の息 子・敬太郎がしたという。敬太郎は、のちの若松市長で、この人物がまた実に興味深い(注4)。ただし、舛添弥次郎は僅差で落選した。

  一方、同じ選挙で、小説に中村勉(敬称略)という若者が金五郎の陣営から出馬 し、落選したとある。

 「築港会社の社員で27歳」「精悍な顔に、はちきれそうな闘志」と小説で描かれた中村勉とは、金五郎の女婿であり、ぺシャワールの会の中村哲 医師の父なのだという。つまり中村医師は金五郎の孫で、葦平のおいに当たる。

  この選挙のことは舛添氏が近年、新聞などで書いているし、舛添氏の一部の文章が鶴島さん追悼文集にも転載されている。舛添氏は亡父のことを調べるため鶴島氏を訪ねたそう だ。

 一方、中村医師のことも最近、新聞で金五郎の孫であることが報じられるように なった。若松は金五郎や磯吉ら第一世代から始まって、葦平、敬太郎ら、さらにその 次の世代へと、多彩な人材を輩出したのである。

 なお、舛添氏や中村氏の父親と、刺青が関係があるとはいっていないので誤解なきよう願いたい。

■近代と、個人の苦悩

 鶴島さんら「葦平資料の会」では、地元若松区民会館で常設展示や特別展示をして いた。やはり『花と龍』の展示は人気があると生前、聞いたことがある。しかし、こ の物語は今回読みなおして抜群の面白さがある半面、どこか暗い影が感じられる。

 金五郎が自身を、やくざと同じじゃないか、と悩む場面がある。葦平自身も登場し、 労働者のために何か役立ちたいと組合づくりに奔走する。実は、刺青の後悔も含めて何かと親子ともども苦悩している場面が目立つ。

  触れるのが遅くなった。葦平といえば、『麦と兵隊』であった。そのために戦後は 戦争協力者と非難された。葦平は苦悩していたようで、戦後間もない昭和27年発表の作品である『花と龍』にも投影されているのだと思う。

  鶴島さんが葦平の資料保存に取り組んだのも、この戦争問題だ。あるとき、葦平の残した手帳の詩句の一節に、反戦の思いがあるのを見つけ、衝撃を受けたのだという(注5)。それ以来、再評価を訴えてきた。

  生前の鶴島さんに、かつての若松が栄えたときの写真や資料を見せてもらったことがある。「偉大な文明」を築いたと当時の人たちは自負していた。

 北部九州は石炭や製鉄によって日本近代化の原動力そのものだったからだ。そして、日本は戦争に突入 した。その真っ只中に葦平の生涯はあった。

  追悼文集にある鶴島さんの遺稿を見ると、鶴島さんは、葦平の胸中には、「日本の近代化を底辺で支えた庶民群像に対する、いとおしみの情」があったのだと書いている。

 葦平は、近代化と個人というテーマを考える重要な存在であり続けるし、鶴島さんの指摘や資料保存運動の実績はその手がかりになるのは間違いない(注6)
 
(注1) 『花と竜』の表記もあるようだ。本稿では文庫本に従い、『花と龍』とする。
(注2) 『信念の人 鶴島正男・追悼』(07年12月。火野葦平資料の会幹事会発行)。
(注3) 朝日新聞西部本社発行夕刊社会面コラム『偏西風』。これは各部デスクが交代で書くコラムで、当方の 「『花と龍』の政治学」は96年7月の掲載。
(注4) 吉田敬太郎は戦中、父を継いで代議士を務め、軍部批判をして憲兵隊によって投獄・弾圧された。戦後、キリスト教の牧師となり、若松市長も務めた。
(注5) 葦平の従軍手帳に、兵隊とはかなしいものだという趣旨で「春のひねもすをいくさするすべにすごしつ」とあったうち、「いくさするすべ」は、当初「人ころすすべ」と葦平は書いていたのを鶴島さんが発見したという。現実を直視したところに実は反戦の思想があるのだ、とする。生前、当方が話を聞いたときも、このことを繰り返し語っていた。
(注6 ) 本稿を書くに当たって、若松の葦平資料館に電話して今後の動きを聞いてみたところ、資料展示は続けるとのこと。ただ、その他の詳細は未定のようであった。

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