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コラム
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(掲載日 2008.04.01)

  「天才児を創る!」という一冊の本がある。

 早期教育のための本で、お受験ママだった時代にバイブルのように使い込んでしまった。未だに売れているそうだ。これはお受験のテクニックを駆使して、努力で高学力を身につける優等生ハイ・アチーバーのコドモを効率よくつくる方法論である。

 私は恥ずかしながら、20年ほど前にこの著者の本を全部買って実践した母親だ。その後、長女が小学校3年生くらいのときに、通っていた学習塾のひとつ上の学年に、この著者の息子が通っていると聞き、長女を拝み倒し、飛び級で偵察をしてきてもらったことまである。

 こうした本の延長線上に、百ますケイサンや、音読があり、いわゆる訓練系の情報処理能力の向上本があり、ここ数年情報処理能力の高い子はたくさんでてきており、効率よくドラゴン桜的に東大に入っていく。

 ただし、それはけもの道を切り開けるチカラではなく、天才児は間違ってもこの本ではつくれないし、飛びぬけたひとの頭脳は、哀しいほど、最初からきまっている。

 数年前のフィールズ賞の受賞拒否のロシアの青年をご存知だろうか。

 母の年金があるからいいと受賞を拒否したという彼は、かなり人から認められにくい気質らしい。

 欧米では、ギフテッドと呼ばれる生まれつきの学習能力や学び方の素質のある子達というのは、外界を知覚するのに根本的な違いがあり、その違いが生活すべてに影響しているため、高知能を持つ人間ならではの心理的、社会的、感情的な要求−異常なほどの熱情、並外れた集中力、他人とは一風変わった振る舞いが見られるのが常であるとされている。

 したがって成長期の教育環境においても特別な配慮が必要であるという認識のもとに教育制度が作られている。

 しかし、人間は生まれながらにして異なっているという立場をとることをよしとしない、能力平等主義をとる日本においては、この問題は、ある種の早期教育や教室の問題児のための一部の特別支援教育レベルでしか捉えられておらず、この問題の重要性について社会の中で認識されていない。

 しかしながら、2005年の岩波の「日本の生命科学はどこへいくか」の連載中にも、粒のそろった優等生タイプしか大学にこなくなったと、指摘した有識者が多かった。

 エジソンやアインシュタインの特異な気質についてはよくいわれるが、物理学科や数学には、昔からよくいる人材であった。

 しかし、近年、日本では、こうした他者から認められにくい人格に存在する高度な知性が、以前にもましてアカデミアの中で、存在しにくくなってきている。

 ラボの中で、プレゼン能力があったり、器用にグラントに申請していける世渡り上手な学生だけが生き残っていく。

 IT技術の急激な発展により、これまで一人の人間の認知能力の中だけで完成していた知性が、ネットワーク協調型の分散型プロジェクトに変わっていっているのだ。

 こうしたここ数年の成果主義、IT、学際的な学問体系、KYを恐れる小粒なスマートなエリートを量産していくマッキンゼー的手法。それらが外堀を埋め、ユニークインテリジェンスをもった高度な知性の子どもたちがどんどん排除されていく時代である。

 もともと、サイエンスというものは、人と違ったことをするということにその真骨頂があり、その天才的頭脳を見出し、その認知の特殊性ゆえにサポーターがいなくては存在しえないものだ。

 生まれながらのそうした知性の本体は、私は、過敏な神経によるオーバーエキサイトビリティーでははないかと考える。

 研究者でいい論文を書いていそうなひとは、しゃべりだしたらとまらなかったり、机の上がグチャグチャだったり、きわめてバランスの悪い日常感覚のひとが多い。皆口をそろえて、コドモ時代、へんな子だったという。
しかし、そうした生理的な反応こそ、次世代の突破力を作り出す。

しかし、昨今、こうした頭脳をもつ子は、異質な子として排除されていく、これでは、次世代の新しい知恵は生まれないと思う。

 洋泉社から今秋発刊予定の単行本「ユニークインテリジェンス」の編集アドバイザリーボードとして東京大学の学内に「ユニークインテリジェンス研究会」を立ち上げた。

 ご興味をもたれた方は河原までご連絡いただきたい。
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