| (掲載日 2008.05.20) |
最近原油価格の高騰が世界経済に重くのしかかっている。正確な統計はないが、日本でもガソリン価格はオイルショック(注1)の時の価格を上回ったようだ。
オイルショックといえば、当時日本が「総需要抑制策」をとり、世界で最もうまくオイルショックを乗り切ったのは有名だ。
日本は世界に先駆けて、物価や経済を正常に戻すことが出来たのである。原油価格高騰の折、当時の「総需要抑制策」を振り返って見よう。
■総需要抑制
総需要抑制のためには、まず家計の消費や企業の設備投資などの民間需要(民需)を抑制しなければならない。
民需を抑制するためには、民需の機関車の役割を果たしている民間企業の設備投資を抑制する必要があり、その手段としては、金融引締めが最も有効だ。
なお、総需要には公共投資や政府消費などの官公需も含まれるが、これは政府自身で決められる需要だ。
■当時の政策と効果
当時の金融政策とその効果はどうだったのだろう。
日本銀行は原油価格の上昇を受けて、政策金利である公定歩合を1973年12月に、7%から9%へ引き上げた。その結果、民間設備投資や個人消費は抑制され1974年の実質経済成長率はマイナスになった。政府は需要抑制に成功したといえるだろう。
また同時に官公需も抑制され、物価は1975年から安定に向かっている。
■いくつかの疑問
こうして見ると、「総需要抑制策」は原油価格高騰への対応策として、極めて有効だったように思われる。だが、当時の政策とその効果を詳細に見ると、いくつか疑問がわいてくる。
ひとつは、二桁の物価上昇が続いている中で、日銀が早くも1975年4月に金融緩和に転じたことだ。しかも、狂乱物価の最中に金融緩和に転じたにもかかわらず、その後、物価は正常化に向かっている。
もうひとつは、米国なども日本と同様に、金融引締めなどの需要抑制策を取っていたが、1980年台後半まで、物価上昇と不況が同時に起きる「スタグフレーション」に悩まされていたことだ。一方日本は物価安定に加え、経済も安定成長に戻っている。
■オイルショックを乗り切った本当の理由
実は、日本がオイルショックを乗り切ることに成功したのは、「総需要抑制策」に失敗したおかげだった。
当時、GNPデフレータ(注2)は10%〜20%と、米国の2倍以上の上昇率を示している。つまり、総需要抑制策が不十分だったために、「便乗値上げ」が横行していたことになる。そして、抑制が継続されていたはずの民需も官公需も1975年から復活している。
原油価格上昇などの外的要因によるコストプッシュインフレは、価格上昇が一時的で軽微なものでなければ、金融引締めなどの需要抑制策では解決しない。
世界中が金融引締めをして、世界の原油需要を10%ほど減らせばインフレ抑制は可能だが、それほどの金融引締めをすると世界大不況になってしまう。
一方で、自分の国だけの原油需要を減らしても、世界全体の原油需要に与える影響はごく僅かでしかない。しかも、そのために国内需要を無理に抑えると、企業は原油上昇分を製品価格に転嫁出来ずに破綻してしまう。
結局、自分の国が不況になるだけで、決して原油価格は下がらずインフレも収まらない。
■真に効果的な対策は
原油価格上昇への対応は、出来るだけ早く物価全体を原油価格の水準に合わせること、つまり、インフレ政策を取ることだ。
当時、便乗値上げを事実上容認(?)したり、物価上昇率が二桁であるにもかかわらず金融緩和に転じたことが、意図的ではないとしても、日本経済が結果として、世界で最もオイルショックへの対応に成功したことに繋がったのである。
一方、金融緩和に慎重で、厳しく需要抑制を図った米国などは、一時的に物価抑制に成功したものの、物価水準を原油価格の水準に合わせることが出来ず、長期のスタグフレーションに陥ってしまった。
■今回の対応は
白川日銀新総裁は、先の講演会で「原油価格の一時的な上昇により消費者物価が上がっている場合でも、・・・・政策金利を引き下げることが、・・・・成長という目的に貢献する」と、原油価格上昇に伴うインフレならば、景気次第で利下げも辞さない旨の発言をしている。言行一致に期待したい。
(注1) |
1973年10月の第四次中東戦争により、原油の供給不安が広がり、原油価格が急騰した。更に、1978年にイラン革命が起きたことから、結局、原油価格は以前の9倍にまで上昇した。 |
(注2) |
原油価格の上昇分だけを製品価格に転嫁する場合は、GNP(国民総生産)デフレータへの影響は出ない。GNPデフレータが急上昇したのは、いわゆる「ホームメイド・インフレ」が起きたことを示している。オイルショック前のGNPデフレータは、5%程度だった。 |
|
|
|
|
|