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コラム
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(掲載日 2008.07.22)

 知人の母親は90歳で、平日はグループホーム、週末は娘家族と過ごす。先日、知人が疲れきった様子でする母親の介護苦労話を聞いた。

 彼女曰く、自宅に戻ったときくらい美味しいもの、好物の料理を食べさせたいと前日から準備をするのだという。しかし、母親に食欲はなく、一口二口食べて、もういらないと言うのだと愚痴り、さらに、その一口二口食べさせるのに時間がかかり、食べ終わった頃には次の食事の用意をしなければならないと嘆く。

 さらに、そのくせ、好きな水羊羹は3つも、4つも食べるし、サクランボもいくつもほおばると半ば腹立たしそうに、一気に捲くし立てる。

 では、施設ではどう対応しているのかと聞くと、缶詰された離乳食のような食事を与えられているという。彼女としては、母親の食事介助に時間がかかり、大変な作業であることを知っているがゆえに、施設がこのような食事を与えていることに特に異議を唱えず、だからこそ、自宅に戻ってきたときには、美味しい料理を食べてもらいたいと言う。

 この話には、人間の食べるという行為の意味、生物として朽ち果てていくことの道理、尊厳ある生き方、さらには、介護を行う第三者への理解、共感ないしは信頼、そして、介護を事業とする者のリスクマネジメントのあり方、等々、多くの問題が含まれている。

 ところで、長寿は戦後の貧しく飢えた時代の悲願であった。以来、長く生きること・それを望むことが善であり、そのために万策を尽くすことが当然視され、家族や国家がその努力を怠ることは大罪に値すると考えられてきた。この考え方が日本を長寿世界一としたのである。

 おそらく、それ以前は、医学や薬学が未発達・未普及でもあったため、人々は長く生きることへの執着が今ほどは、強くなかったと思われる。若くして亡くなったとしても、本人・家族共に、これも天命あるいは寿命と諦観していたのではないだろうか。

 現代は、少なからぬ人々が治らない病はないと思い、病院を巡り、インターネットなどを駆使して情報を集め、最善・最高の診断治療を受けようとし、また、受けることができるべきだと考えている。このような考え方が医療訴訟の一因をなしていることは、周知の通りである。

 今、医療の現場で見られるこの現象が、介護施設においても見られるようになってきている。それが、上記友人の愚痴から見て取れるのである。

 90歳を超えた母親、しかも、日中、ほとんど動かない。そんな彼女に食欲がなくて当たり前である。彼女は食べなくても平気であり、むしろ、食べさせられることが苦痛であろう。

 在宅介護を選択し、その自宅で家族が食べることを無理強いしなければ、少しずつ、母親は衰弱し亡くなるであろう。これを責める人はいないだろうし、責められるべき筋合いでもない。加齢と共に食欲が減退し、朽ち果てていくのは生物としての必定である。

 しかし、これと同じことを介護施設が実践したらどうなるであろうか。面会に行くたびに自分の親が痩せていくのを見て、施設は適正な食事を与えているのか、などとクレームをつける家族が圧倒的に多いであろうことは容易に想像できる。

 考えるに、この母親に食欲のないことの方が当然であり、食事を無理強いするのは母親の快適に、穏やかに暮らす生活を乱すもの、換言すれば、人間としての尊厳を損なうとも言える。  

 私は知人に、これからは食事を取らせることにエネルギーを注ぐのではなく、母親の流儀を尊重したらどうか、施設にも、そのようなやり方で食事介助にあたることを頼んではどうかとも話してみた。

 しかし、その後に、友人は、そのような食事介助の結果として、施設の中で母親が衰弱していくことを自分は納得できるが、食事介助の苦労を知らない妹は施設を訴えるかもしれないと述べた。

 これが介護施設が缶詰食などにより入所者に栄養を取らせる理由の一つである。今日、施設内での事故を理由に多くの訴訟が提起されている。施設側としては訴訟リスクを回避するため、すなわちリスクマネジメントとして、入所者の尊厳よりも家族の反応を重要視せざるを得ないのである。

 骨折して訴えられないために、ベッドから降りられないようにする、車椅子に乗せる、外出させない、怪我をして訴えられないように、果物の皮むきも、針仕事もさせないということが実際に行われている。

 転倒して骨折すること、介護者が高齢者を抱きかかえられずに落として怪我をさせること、目や手の機能が衰えている高齢者がりんごの皮をむいて包丁でけがをすることは、在宅では、しばしば起こる事である。

 これが施設で起こった場合に、施設にその責任を問うか否かは、当事者間に信頼関係があるかどうか、家族が高齢者の身体機能の低下や介護のリスクを理解しているか、人間が所詮は生物として、何かをきっかけとして亡くなるという諦めを持てるかどうかにかかっているといえる。

 介護提供にかかわる当事者は、家族、施設事業者および監督権限を有する行政機関の三者である。

 そして、彼らは時に、施設に入れた以上、事故はあってはならない、いつまでも健康でいられることを要求する家族、それに必要以上に反応し、入所者の尊厳ある生き方を否定してでも、求められる介護サービスを実践しようとする施設、そして、それが実践されていることを積極的に評価する行政となる。

 介護保険施行から10年近くが経過した現在、彼らが、今一度、介護される者の立場にたって、あるいは人間の生物としての摂理を再認識して、介護サービスのあり方を考えることが求められている。

 多くの分野でクレーマーと呼ばれる人が現れ始め、担当部署はその対応に疲弊している。その結果、クレームが起きないよう、つまりリスクマネジメントを至上命題とする組織運営となりつつある。

 しかし、商品売買ならいざ知らず、人間相手の介護サービスの現場に、その論理を持込むことに対しては違和感を覚えざる得ない。

 知人の食事介助をめぐる愚痴から、介護現場における人間の尊重、人間の行き方・死に方を考えさせられた。読者諸氏には、いまさらの感のあることかもしれない。

 この問題については、多種多様な見解があり、また、正解の出る種類の問題でもない。考えることで、この問題が可視化され、介護のあり方や人の生き方・死に方の議論のたたき台になれば幸いである。

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