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コラム
今週のテーマ
(掲載日 2008.09.30)

 ■はじめに

 確信を持って望んでいた判決公判ではあったが、「被告人は無罪」という言葉を聞いたとき、重い肩の荷が下りるような気持ちになったのは、弁護団全員の偽らざる心境だろう。

 弁護団が本件に関与して2年半が経つ。その間に様々なことがあり、法廷には現れなかった種々のことがある。

 弁護団は、膨大な時間と労力を本件に費やし、ときにぶつかり合いながら、相克を経て無罪判決に辿り着いた。弁護団の末席に名を連ねていたに過ぎず、たいして役に立てなかった私ではあるが、やはり万感の思いがある。

 弁護団は、裁判官や検察官に与える影響への危惧及び遺族の方々への配慮から、マスコミや支援者の方々に対するアクセスを控えてきたという事情があった。

 公正な報道をして頂いたマスコミや、暖かい支援をして頂いた支援者の方々に対しては内心非常に感謝していたが、ときに無愛想な弁護団と映ったかもしれない。この場で、すべては被告人のためであったことをお伝えするとともに謝意を伝えたい。

 また、当然のことであるが、今回の判決が不幸な出来事を消し去るわけではない。亡くなられた方の無念、遺族の悲しみには、法廷で現実に相対していることでより切実に感じていた。改めて哀悼の意を捧げたい。

 弁護人としての守秘義務があり、まだ民事訴訟の可能性が残っている段階では、あまり立ち入ったことを述べることができない。そこで、本稿では平成20年8月20日に言い渡された判決(本判決)に対して、本件訴訟に従事した立場からの検討を加えるに留めたい。

 なお、現時点では判決の要旨が朗読されたのみで、書かれた判決文が公にされておらず、手元にあるのは判決要旨の要約のみであるため、判決内容については正確性を欠くことを予めお断りする。

■本判決の成果(医学的準則による結果回避義務の判断)

 本判決は、医師の診療行為が刑事手続において処罰されるためには、医師の行為が医学的準則に反しているといえる場合でなければならないという前提のもとに、その医学的準則は「当該科目の臨床に携わる医師が、当該場面に直面した場合に、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の、一般性あるいは通有性を具備したものでなければならない。」とした。

 そして、本判決は、医療準則をこのように定義する理由として「このように解さなければ、臨床現場で行われている医療措置と一部の医学書に記載されている内容に齟齬があるような場合に、臨床に携わる医師において、容易かつ迅速に治療法の選択ができなくなり、医療現場に混乱をもたらすことになる」「刑罰が科せられる基準が不明確となって、明確性の原則が損なわれる」などの点を挙げた。

 このような医学的準則の設定方法は、まさに本件のような希少な症例や先進的な医療措置の対象となる症例などを扱う場合の医師に対する配慮に基づくものであり、刑事処罰が診療行為に対して過度の萎縮を与えることを防止する意図に出た適切な医学的準則の定義といえよう。

 本判決は、検察官が主張するような胎盤の剥離を中止して子宮摘出手術等に移行する義務を裏付ける臨床例が一つも提示されていないことを挙げ、一部の医学書に同様の記述があったとしても、それだけで医学的準則といえるまでの一般性・通有性があるとは言えないとして、検察官の主張を排除したのである。

 福島地裁が、一部の医学書の記載のみにとらわれず、臨床医学の実態について先入観を排除して理解し、判決に反映させたことは、合理的かつ公正で勇気ある判断であると称えたい。

■本判決の危険(予見可能性の肯定)

 しかし、本判決は、一方で大量出血による患者死亡の予見可能性(又は予見義務)は肯定した。

 刑事事件で過失が認められるためには、結果回避義務が認められる前提として、結果発生の予見可能性が認められることが求められる。

 結果として、本判決は大変あっさりと予見可能性を認めてしまったのだが、これは大きな問題である。

 なぜなら、予見可能性を充分な検討なしに認めてしまうと、刑事処罰を決める要件は事実上、結果回避義務の有無すなわち医学的準則の解釈如何のみに関わってくることになる。

 結果回避義務について、本判決は、前述の医学的準則を用いて高いハードルを設定したのであるが、一方で、本件において検察官が自ら主張した「直ちに子宮摘出手術に移行すべき」という医学的準則を立証し得なかったのは、 @「医師らに広く認識され」、 A「その医学的準則に則した臨床例が多く存在するといった点に関する立証」がなされていなかったからであるとした。

 これは逆から見ると、検察官が@医学書や医学雑誌などの掲載例を提示し、A海外も含め、大量に存在する臨床例の中から、自らの主張に合致する臨床例を複数集めさえすれば、結果回避義務を肯定させることも可能ということである。

 このような掲載例や臨床例の数の評価は、主観的なものであり、検察官の主張に合致しない掲載例や臨床例が数多く存在しても、検察官の主張に合致する掲載例や臨床例が複数存在すれば、それが一般性や通有性を有していると評価される危険は残っているのである。

 これを杞憂と見る向きもあるであろう。 しかし、臨床例の少ない先進的医療について過失が問われたときには、弁護側が充分な臨床例を集められない事態が予想される。

 また、起訴された事件の99パーセントが有罪になるという現実、裁判所が事実上「有罪推定の原則」という考え方で検察官の主張を前提として審理を行っている現実のもとで、被告人及び弁護人として活動する身としては、裁判官の評価が検察官寄りなのではないかという危惧感・プレッシャーは相当なものなのであり、決して杞憂などではないのである。

■術前の予見可能性

 では、本判決は、いかなる理由で予見可能性を認めてしまったのか。

 本判決は、術前の予見可能性と、術後の予見可能性に分けて検討を行った。術前の予見可能性については、大きな争点となった胎盤の癒着位置及び程度が結論を左右した。

 本判決は、子宮後壁(母体の背側の子宮壁)にのみ胎盤は癒着しており、癒着の程度(胎盤絨毛の子宮壁への侵入の程度)については「ある程度」胎盤絨毛が子宮筋層に入り込んだ嵌入胎盤の部分があったとした。

 判決は、このような胎盤の癒着状況を前提として、術前における予見可能性の程度をかなり低いものと見て、予見可能性を否定した。

 少し脇道にそれるが、この癒着胎盤の位置・程度に関する裁判所の判断方法は、弁護側鑑定人の意見にほぼ依拠しながら、表面上は検察側鑑定人の意見を前提として立てる、という分かりにくい構成を取ったものであった。

 審理に関わった身からすると、検察側鑑定人は、その鑑定結果の論理破綻、鑑定方法の不充分さ、対象領域に関する鑑定経験の未熟さが明白だっただけに、もっと違った判決の書き方はなかったのかと残念である。

■術中の予見可能性

 術中の予見可能性については、本判決は大変あっさりと認めてしまった。

 本判決は、胎盤を用手剥離することが困難になった時点で癒着を認識したとして、癒着を認識した以上は、癒着胎盤を剥離することで大量出血を来たし、患者の生命に危険を生ずることを医学書の記載やその他の見聞から知っていたのであるから、大量出血及び患者死亡の予見可能性はあったと判断したのである。

 しかし、これは結果論、言い換えれば後方視野的な見方であり、当時の現場における術者の予見可能性を考慮していない。

 過失犯における予見可能性は、行為している時点での一般的な医師及び当該医師の予見可能性を問題とすべきである。

 なぜなら、そもそも医療措置は身体への侵襲を必然的に伴うものであるから、後方視野的に見ると、常に危険を伴うものである。

 したがって、結果的に見て危険があったからという理由だけで常に予見可能性を認めていたのでは、病状が重い場合など患者の身体状況が悪い場合は常に予見可能性が認められることになってしまう。

 これでは過失犯の要件として予見可能性を設定した意味がないのである。よって、医療措置における予見可能性を審理する場合は、行為当時の患者の身体状況や医学的準則を充分に考慮して、術者がその状況と医学的準則の下で危険な結果を予見できたのかを検討する必要がある。

■本件手術における事情

 本件手術においては、胎盤剥離中における総出血量は多くとも555mlに過ぎない。特に胎盤剥離の早い時期では、より出血量は少なかったのである。

 また、胎盤を剥離しきることによって子宮収縮が期待でき、止血効果を得ることも可能である。したがって、周産期医療の現場では、この程度の出血で胎盤剥離を中止しなければならないとは到底考えないという。

 この程度の出血で、患者の生命に危険を及ぼすほどの大量出血を予見すべきという医学的準則は存在しないのである。

 よって、本件の行為当時、剥離を継続することによって患者の生命の危険をもたらす程度の出血が生ずることを予見することは不可能だったのである。

 しかるに、本判決は、そのような行為当時の具体的な事情を前提としないで、客観的に存在した危険性のみを前提として、安易に予見可能性を認めてしまった。

 この点において、本判決は予見可能性(又は予見義務)の要件を有名無実化してしまった。

 ちなみに、術中の出血量については、検察官が麻酔記録に記載された出血量が誤っているという主張を展開したために大きな争点となり、結果的に検察官の主張は退けられ、弁護側の主張が容れられたのであるが、その議論の意味が結果的には判決にあまり反映されていなかったことなり、この点でも残念であった。

■搬送義務

 本判決については、予見可能性の問題のほかにも、因果関係の認定についても大きな問題があったが、紙幅の関係もあり、種々の利害関係者もいるので、本稿では触れない。

 また、本判決に対するコメントで搬送義務(術前に本件患者を他の医療機関に搬送し、他の医療機関で手術を行うべきであったという義務)について触れたものが散見されたので、その点について述べたい。

 本判決に対するコメントには、搬送義務の有無が明らかにならなかったというものや、搬送義務が明らかであったのに適当な措置を取らなかったことは反省すべきだ、などというものが見受けられた。

 しかし、これらのコメントには刑事訴訟に対する無理解と訴訟経過に関する情報不足が影響を与えているものと思われる。

 刑事訴訟は、検察官が起訴状において公訴事実を設定し、それに対して弁護側は防御活動を展開する。また、検察官は、刑事訴訟の途中で公訴事実を変更することも可能である(これを訴因変更という)。

 しかし、本件において、検察官は公訴事実の中に搬送義務違反を含めなかったし、訴因変更も行わなかった。

 検察官は、法廷においては、本件手術が行われた県立大野病院の施設や人員に関する証拠や術前の検査結果に対する鑑定証拠などを多数提出し、証人尋問においても術前の検査結果について詳細な尋問を行い、術前の予見義務の有無を立証するための証拠は提出していた。

 術前の予見義務が肯定されれば、術前の搬送義務が立証できるかもしれないからである。

 しかるに、結果的に検察官は搬送義務を公訴事実として取り上げることはしなかったのである。

 これは、すなわち搬送義務違反を公訴事実として取り上げても認められないであろうという判断が検察官にあったからであろう。

 事実、胎盤の癒着状況に関する鑑定結果、術前の検査結果に対する鑑定結果や証人尋問の経過からは、術前の搬送義務を立証することは極めて困難な状況であった。

 しかるに、判決に搬送義務に関する言及がないことを理由に、搬送義務があったかのようなコメントがなされるとするならば、それはイソップ童話のキツネ(手の届かないブドウは酸っぱい)と同じ論理といえよう。

 本判決は、以上述べてきた業務上過失致死罪のほかにも、異状死体の届出義務を規定した医師法21条違反についても無罪とした。

 この無罪判決の評価については、紙幅の関係上、次回述べたい。
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