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コラム
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(掲載日 2009.08.04)

 地方の過疎問題が言われて久しい。最近では「地方が疲弊・崩壊している」、「限界集落」など、希望が見出せないような言葉で地方・地域が形容されている。

 特に、私の住む北海道は、広大な面積であるところに人口が道都札幌に集中しているため、札幌以外の地域には、これらの言葉が当てはまる所が多い。すなわち、北海道の面積は全国土の2割強を占め、九州、四国に広島、山口、島根の各県を足した広さである。また、北海道の人口約554万人のうち、190万人が札幌に暮す。

 このような状況下にある北海道のみならず、全国の地方に暮す人々は、若者の流出や生活に必要な施設の撤退に−企業、商店はもちろん、病院、学校にいたるまで−、戸惑い、そして、この苦痛と不安をどこへ、ぶつけてよいのか途方にくれているかもしれない。

 ところで、このような悲観的な考え方の背景には、私達の心の中に、「人口は多いほど良い」、「町は大きいほど望ましい」、という考えが拭い難く存在していることに由来しているのではないかと思う。確かに、人が多ければ産業は栄え、町は活気にあふれる。市町村の規模が大きいと、財政にもゆとりが生じ、多種多様な事業が可能であり、住民の福祉の向上も見込める。

 しかし、東京や大阪のような大都市で暮す人々が皆、幸福であるとは誰も思わない。東京にいても、救急車がたらい回しにされて患者が亡くなる例を私達は知っている。北海道全体では、これまで見聞したことのない通り魔殺人、無差別殺傷事件が他都府県では、時に発生している。大きな都市が、住民に幸福を約束をするわけではないことがわかる。都市の規模と安全・安心の度合いが反比例するといえるなら、これらの例はその証左である。

 だからこそ、地方の疲弊を、いたずらに嘆いてもしかたない。人の一生のように「まち」もまた、変化すると割り切らなければならないのだと思う。そもそも、高齢化、すなわち長寿であることは、「解消」すべきことではなく、喜ばしいことと受け止められてきた。また、人口減の決定的要因である少子現象は文明化のバロメーターでもある。

 地方の縮小、衰退が私達の努力によってしても効し難いのであれば、その現実を受け止めて、人口が少ない、財政も乏しいといった現状・実情に合う地域・地方運営の方式を見つけて、実践していくしかないのである。

 そして、このことに既に、気がついている自治体や民間組織があり、これらは増加傾向にある。住民や行政当局が知恵を出し合い、わが町が地方にあること、田舎であることをメリットに転換させて、住民の暮らしを守ろうとしている。

 先日、NHKで放映された小樽市朝里地区の取り組み、「安心カード」はその好例である。朝里地区の民生委員たちが考案した「安心カード」は一人暮らしの高齢者・障害者の身体・既往症情報や、かかりつけ病院等を記載したカードを冷蔵庫の中に入れておき、救急隊員らがそれを手がかりに処置、搬送するというものである。ある民生委員が各戸を巡回中、高齢者らとの会話の中から得た「こういうものがあったらいいな」というアイディアが、すばやく実現した例であり、住民や救急隊員の役に立っている。小さな地域単位、少ない担当者・対象者だから、迅速な意思決定・実践が可能であったと思われる。

 大きな都市であれば、良いことにも慎重な意見、現状維持に固執し、新規事業にまずは反対する意見など、意思決定に時間と労力を費やさざるを得ないことが多い。また、組織が大きい場合、現場でニーズを把握し、緊急性を肌で感じる者と、意思決定権者が乖離し、彼らの間に温度差が生じることになる。この場合、しばしば、住民ニーズの吸収や実現が困難になりやすい。

 小さな市町村の担当者や医療・介護のサービス提供に携わる者は、その規模の小ささと、人口の少なさゆえに、関係者がアイディアを出し合い、迅速に意思決定、そして実践することが可能であることに思いをいたらせてほしいと思う。

 もし、小さな町で、誰かが、日々の活動を通して得たアイディアが検討もされずに無視され、より良い地域へと向かう道が閉ざされるようなことがあれば、そこは、人口減と高齢化ではなく、そのような意識によって町が崩壊してしまうといえるだろう。
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