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コラム
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(掲載日 2010.02.16)

 昨年(09年)、寝たきりになって入院していた老父のその後のことである。急性期の病院から慢性期の病院に移るとき、病院同士の連絡として病状などを記した手紙の受け渡しがあった。その手紙は、介護する家族が転院先に持っていく。差出人は入院していた病院の医師で、宛名は転院先の医師である。封筒の表に「○○病院 △△先生 御侍史」とあった。

 「御侍史」とは「おんじし」と読むのだそうだ。だいたいの意味は尊称だといってよさそうである。医師の会員の方はなじんでおられるようなので詳しくは省略する。言いたいのは、これは医師同士ならではの慣例だろうということだ。最初に入院していたのは公立病院で、転院先は私立病院である。日本社会の伝統的制度と、それに由来する文化、体質である官尊民卑に従えば、公立組織から民間組織に何かを伝達するとき、支配・取り締まるという物の言い方をするはずである。しかし、医師同士ならば、官であれ民であれ、同じプロフェッション(専門職)としての誇りに基づいて尊敬しあうのだろう。

 こういうしきたりは、儀典(プロトコール)というのがふさわしいかもしれない。外務省や外交交渉について知っておられる方には次のことは当たり前だろう。通常、外交関係は、(1)交渉の中身(サブスタンス)、(2)交渉団の宿泊や食事、交通手段の確保(ロジスティックス)、(3)晩餐会などでの儀礼・儀典(プロトコール)から成り立つ、ということである。

 そして、いずれも大事なのである。交渉の中身であるサブスタンスは、いわば戦闘正面、最前線である。攻撃・防御両面の戦闘力は何より最優先である。しかし、ロジスティックスも重要である。日本語に訳すと兵站となる。戦争用語で武器弾薬、食糧、兵営などの後方支援のことである。情報戦も含めて広義に考えてもいいと思う。ともあれ、兵站を断たれて戦争はできない。戦いの必要条件である。この兵站を支えるのは、これを大事と理解する人間がいることである。それが次の話である。

 当方は、少年時代から米国の戦争映画「パットン大戦車軍団」(1970年。主演ジョージ・スコット)という映画が好きで、劇場で見たあとテレビでの再放送を何度も見ている。第二次世界大戦で北アフリカ・欧州戦線で米戦車団を率いた将軍パットン(つまり人名である)の物語である(ちなみに、そのころ、ドイツ側の戦車軍団には「砂漠の狐」と呼ばれた元帥ロンメルがいた。知名度はロンメルが上だろう)。

 パットンの映画で戦闘シーンよりも強く印象に残る場面がある。兵営の中でのことである。陸軍少将だったパットンが「今度、中将に昇進することが決まった」と言って、少将の肩章(軍服の肩に位を示す「星」が付いている)を星の数がひとつ多い中将の肩章に自分で取り換えようとした。これに対し、そばにいた同僚のブラッドレー少将が「まだ議会の承認が得られていないだろう」と言って諌めようとした。「そうか。でも内示があるんだ」「じゃあ、いいか」というやり取りが続く。議会の承認。それが映画の場面になる。なるほど、これが(当時の)アメリカ民主主義なのだと、何度見ても小生は感心する。

 この映画は、大量の高性能戦車と、豊富な弾薬、ガソリンというロジスティックスを土台にして、戦闘意欲にあふれる将軍パットンが指導者として米軍を率いたという話である。パットンが兵隊たちを集めて演説した内容を小生がまとめて意訳すれば、次のようになる。「諸君の後ろには圧倒的なアメリカの生産力と、民主主義がある。あとは、オレに付いてこい」。

 同じ時代、日本軍はどうだったのか。昨年(09年)4月、日本経済新聞の名物連載といえる「私の履歴書」で、旧大蔵省の局長や、博報堂の社長などを歴任した近藤道生(みちたか)氏が戦時中の体験を記しているのを知った。戦争中、東大を繰り上げ卒業して大蔵省に入ったものの、ただちに海軍主計将校となり、出征した。主計というのが兵站部門担当のことである。

 それによると、配属先の東南アジアで飛行場建設の作業をする兵隊たちがマラリア被害にあう。それを防ぐための服(防暑服)や雨具(着)など3000人分を入手しようとしたところ、それを取り扱う部署で拒否された。何かいやがらせを受けたらしい。そこで新たな調達先としてバンコクにあった部署(武官府)に向かうことにした。それを旧仏領インドシナ・サイゴン(現ベトナム・ホーチミン)から徒歩とバスなどを乗り継いで750キロを5日間かけて踏破したという。海軍軍人である近藤氏が内陸部を歩くという苦労を強いられたのである。

 改めて日米の違いを痛感した。大学での主計将校を配置するのは日本軍の知恵だとは思う。しかし、そうした近藤氏が苦労をするほど兵站が不十分なのである。他の資料や読み物でも日本軍(陸軍も海軍も)の情報戦も含めた兵站軽視は通説だろう。同時に、劣悪な状態の中での近藤氏の努力には、敬服したし、読んでいて本当に涙が出そうになった。もし、そうした努力がなく、兵站不足のため兵員が戦病死したならあまりに気の毒である。

 さて、冒頭の話に戻る。医療や介護も、戦闘正面(手術や治療などの現場)、それを支える後方支援(薬や器具、病院運営事務など)、そして儀礼(前出の手紙など)から成り立つだろう。医療の最前線での戦闘力はもちろん最重要である。技術力のある医師ら、いい人材を配置し、日々、能力を磨かなければならない。同時に、後方支援も大事なのである。実は、老父の転院にあたって、そういう急性期から慢性期病院へ移る場合の病院連携を担当する部門が設けられていた。これも病院における兵站の一部門である。担当の事務職員が小生ら家族に説明してくれた。

 しかし、その話しぶりが事務的、一方的だった。カチンときて、小生は不満を伝えた。「こういう転院の場合、患者家族に対して、あなた方(その担当者)は慣れてきて毎回同じ説明をしているだけだろうけど、こちらは入院は初めてのことであり、親をどんな病院に転院させたらいいか不安なのだ。そういう気持ちを理解して説明すべきだ」と。

 医師やナースはさすがに現場で生身の人間に文字通り接していて、患者らへの配慮を怠らないように見える。しかし、こういう後方支援部門はどうしても人目につかないうえに、その重要性に対する理解がなお不十分なのではないか。人員配置の権限をもつ管理職も、配置される当の本人も。人選と、それに伴う士気や技量に影響が出ているのではないか。心配である。小生が何に怒っていたのか、その担当者はわかってくれたか。いまも自信がない。

 転院先で老父は少し元気を取り戻した。寝ているばかりでなく時々車いすに乗せられて動き、そのときは笑ってくれた。しかし、結局、昨夏、死んだ。91歳であった。この父も戦争のとき一兵卒として召集された。苦労したようだけれども、生前、話を聞くことはめったになかった。話をしておけばと悔いが残る。今回、兵站などと戦争用語を持ち出したのも、その思いがあってのことだ。
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