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(掲載日 2010.07.06) |
ひとは、誰も過去からは逃れることはできず、その生きてきた地縁・血縁のつながりが紡いた物語のなかで、生き延びていくしかありません。
以前、南京癌センターの所長からいただいてきていた南京のワインをどうしようかとずっと心に残っていました。
2007年に70年の想いを超えるために、あの上海の街から揚子江を上っていったのですから70年前、飛騨山脈の山あいの町から川を下っていった父の足取りとおなじように あの山あいの川に流してあげたいと、ぼんやり思っていたのです。
今年、6月5日に、東大に現代韓国研究センターができました。
南京戦のあと中朝国境地帯にはいっていった父、朝鮮族の少年たちを東京の大学に出してやるといったのにかなわなかったことを、日韓基本条約の締結後、父を捜しにきてくれた韓国の少年にしきりにわびていたことを想い浮かべました。
アジアがんフォーラムを基盤のひとつとして東大に講座ができたこと、
現代韓国研究センターがアジアがんフォーラムと連携していくこと、
そうした話が開所式で話されて、私の中では、ひとつの区切りがついた気がして、6月5日の夜行列車で上野駅から旅立ちました。
もう半世紀近くも生きて、なにをセンチメンタルなと思われるかもしれませんが、
1997年に父が他界したときに、「お前の顔の傷は南京の業だ」と言った父の言葉をずっと赦さなかった私をなじった母と諍いをおこして、そのことが引き金で、23週の超極小未熟児を産むことになった私。
お父さんの昔のことがずっと祟って私は永遠に幸せにはなれないと、日赤の病棟の電話で、母を責めたてる私に、泣くばかりだった母。
宿痾のように私たち家族に絡みつく過去を断ち切るため、私は生まれ故郷に絶対に帰るまいとこころに硬く想い定めました。
双子の子供たちの困難さを乗り越えるためには、何かを恨まねば生きてはいけなかったというのが本音です。世田谷療育センターに通わせ訓練を重ね、ようやく小学校にあがるとき、私のこころは少しずつゆるゆると溶けていきました。お父さんを赦そうと。そして父を最後まで赦さなかった自分を、もういちど冷静にみつめらるようになりました。
「恋するように子育てしよう」を書いたのはそのころでした。初めて南京にいったとき、「なんでもいいから、架け橋になることをして。生き延びることが一番大事よ」そういいながら、私の頬の傷跡に触れた老婆。
それからは、小泉政権下の東アジア情勢の厳しいときでしたが、多くの人の想いに支えられ、アジアがんフォーラムは形になっていきました。
厚労省には、日本の軍人さんたちの、記録がいまも眠っています。
厚労省の辻事務次官(※当時)には、「あの戦争から帰ってこられた人も、帰ってこられなかった人の想いも、すべてひきうけていたのが、厚労省だったのだから、アジアに向けての活動をしてほしい。」と頼みにいったこともありました。
今年4月に赤座教授のもとで講座がたったことは、前回のコラムで書いたとおりです。
わたしの生まれた庄川は世界遺産の五箇山の麓の川、
連絡船の船着き場の桟橋から
エメラルドグリーンの水面に、ぶどう色のワインを注ぐと、
まるで生き物のように
ぶどう色の帯がゆらゆら揺らめいて、
一瞬、血の色のようにも見えました。
しばらくすると、すうっと消えていき、長い時間軸の中でもけして変わることのなかった 、 悠久の川の流れにもどっていました。
父の野辺送りです。
13年ぶりに帰る故郷には、もうひとつ想い残したものがありました。
戦後を落ちぶれてうずくまって生きている父に、同じ中国に想いをもつものとして、戦後の日中関係修復に尽力された松村謙三先生が亡くなられる前に、父に書いてくださった書が、ほこりをかぶって生まれた家に残っていることでした。
父がその書を大切にしている姿が、私には、とても疎ましかったのですが、今だったら、あの書を素直に受け入れられる気がして。
かなり大きな書なので、富山からの運搬にはいろいろな方のお力添えで実現して、駒場の先端研の私の研究室に、今、飾ってあります。
思春期に父に反発して、ものを投げて当たった傷も、その書にはしっかり残っています。
「地域概念とは、あるものではなく、意識してつくりあげていくものであり、このアジアの急激な構造変容の中でどこに軸をもとめていくのか、過去の中に未来を考える装置をつくることだ。」と、現代韓国研究センターのセンター長、姜尚中先生の開所式での言葉がとても印象的でした。
自分の力ではいかんともしがたいものを深堀りしながら、 日本は、アジアの中でどう、ともに生きるスタンスをもつべきか、次世代のひとたちとともにつくあげていかねばならないとおもいました。
--- 河原ノリエ (東京大学先端科学技術研究センター 「総合癌研究国際戦略推進」寄付研究部門 特任研究員)
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