オピニオンタイトル: | 国家主導の生命工学がもたらした悲劇 −バイオ・コリア国家プロジェクトのひとつの帰結−(上) |
投稿者名: | 日本医科大学・生殖発達病態学講師 澤 倫太郎 |
掲載日: | 2005.12.20 |
品行方正な本会の会員は、「ディープインパクト」という競走馬の名前をご存知だろうか?不世出のリーディング・サイヤー・サンデーサイレンスの最後の産駒。昨年暮れの新馬戦で圧倒的な勝利を収めて以来、今年に入り、弥生賞、皐月賞、菊花賞のクラシック3冠を21年ぶりに制覇。天才ジョッキー、武豊をして「完璧」と言わしめ、JRA史上に「超弩級の衝撃」をもたらした鹿毛の3歳馬である。 ■「黄氏の衝撃」にゆれる韓国 韓国ではこの1ヶ月、「黄ショック」という名のディープ・インパクトが吹き荒れている。 渦中の人物はソウル大学獣医学教授・黄禹錫(ファン・ウソク)氏である。「黄氏の衝撃」により、株価は一時25%暴落し、韓国メディアやインターネットのブログ空間では、黄氏を擁護する声、元共同研究者のジェラルド・シャッテン米ピッツバーグ大教授に対する怨嗟・中傷、現在、ピッツバーグ大学に留学中の韓国研究チームの胚培養技術者ら3人の頭脳流出を危惧する意見が渦巻いている。 日本の嫌韓ブロガーたちは、隣国のこの加熱ぶりを「火病る(ファビョる)」というブログ用語で、ここぞとばかり、あげつらうのに終始し、実に真実がみえにくい状態にある。長くなるかもしれないが、ここに至る顛末を時系列で整理したい。 |
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■ES細胞のつくり方 黄教授は2004年2月に世界で初めて「ヒト・クローン胚」からのES細胞樹立に成功したとする論文を米誌サイエンスに発表した。クローン胚を作る場合、女性から卵子を採取し、そこから細胞核を除去する。そして、その代わりに、クローン化したい人の体細胞の核を移植し、薬品や電気刺激などによって細胞分裂を起こさせる。当初、黄教授グループは、242個の卵子を実験に使用することができたと報告していた。これらの卵子は、排卵剤を投与し、卵巣を刺激して過排卵した健康な女性16名から「無償で」譲り受けたものとしていた。 黄教授の論文に真っ先に疑いの目を向けたのは、英誌ネイチャーである。同誌は同年5月、卵子提供に際して倫理的な問題があるのではないかと指摘した。倫理的な問題とは、研究員の一人あるいは複数名による卵子の不適切な寄贈があったのではないかという疑いである。 細胞分裂を始めた核移植胚が、5〜6日で細胞数140個ほどのボール状の胚盤胞といわれる状態にまで育ったのち、胚を壊し、内部の細胞塊をフィーダー上で培養・増殖させたものがES細胞(核移植ntES細胞)※(1)である。この胚を壊すという作業が宗教的に問題視され、米国では、大統領認可の株以外の新規のES細胞の樹立に公費投入が認められていない。後述するが、韓国では2004年1月29日にアジア初の生命倫理統一法である「生命倫理および安全に関する法」が発布されたばかりであった。 また、指導教官の下にある研究員が卵子を寄贈したとなれば、弱者の立場の人間に卵子を提供させたと解釈され、ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則を定めた「ヘルシンキ宣言」に抵触する。 これに関連し、2004年5月にソウル大学の施設内倫理委員会は「研究員が提供した事実はない」とする調査結果を得たが、なぜか正式な会見を開くことはなかった。 ■3名の主力研究員の渡米の意味するもの ヒトを含む霊長類の体細胞クローニングがマウスやラットなどの動物に比べて困難なのは、卵子の核移植の作業中におこる物理的な損傷が原因ではないかと思われてきた。韓国研究チームは「そっと搾り出す核移植法(soft squeeze法)」を用いて、この難題をクリアした。 この方法の開発には研究チームの主力研究員である胚培養技術者・ソウル大学獣医学部の修士卒業の朴ウルスン(29)氏の技術貢献が大きかったとされる。ネイチャー誌の指摘の渦中の最中、朴氏を含め、朴氏と同じく研究メンバーのミズメディ病院出身の朴ジョンヒョク(36)、金ソンジョン(34)両博士の、3名の主力研究員は渡米し、共同研究者である米ピッツバーグ大学のジェラルド・シャッテン教授(発達学)の研究室に留学するという形をとった。 3名の韓国研究者の協力を得たシャッテン教授は2004年12月、同じ技術を用いてアカゲザルを用いた ES細胞樹立に成功。その成果を、デベロップメンタル・バイオロジー誌に発表した。 このサルのES細胞株の樹立は大きな意味をもつ。ES細胞はどんな臓器細胞にも分化できる能力をもつ細胞と定義される。それが万能細胞と呼ばれる由縁であるが、これを証明するためには、ジャームライン、つまり生殖細胞に分化することが証明される必要があるのだ。たとえばマウスの場合、尻尾からとった体細胞からつくられたES細胞でキメラマウスをつくり、この個体同士を交配させ、子供を作れるかどうかの確認が必要だ。 しかしヒトES細胞での実験は、クローン個体の作成にもつながるために、事実上許されない。そこで、このジレンマを解消するためにも、ヒトの近親種である霊長類による実験系の確立が、ソウル大学のヒトES細胞株の正当性を実証するためにどうしても必要だったのである。 翌2005年5月には「糖尿病など合併症のある患者の皮膚細胞を材料にした体細胞クローン」から11株のES細胞を樹立したとする論文を、同じくサイエンス誌に発表した。2005年8月には「世界初のクローン犬誕生」をネイチャー誌に発表。ES細胞樹立と併せ、幹細胞の治療効果確認の実験系を完成させたと報告した。 この時点で、黄教授は、高等哺乳類のクローン化、サル・ヒトなど霊長類の核移植ES細胞の樹立を成功させ、国内的には、ネイチャー誌からの疑惑を払拭した形となった。韓国メディアは「世界のクローン王」「ノーベル賞に最も近い英雄」という形容で教授の偉業を褒め称えた。 2005年10月にはソウル大学に設立されたES細胞バンクの所長に就任。併せて、米英両国にもサテライトを設立することを表明した。会見には慮武鉉大統領も声明を出し、国家事業としての後押しを約束した。 しかし、細胞提供が有償であったことに、世界中の多くの科学者は内心驚いたのである。2000年3月にウィスコンシン大学の初のトムソンES細胞バンクを例にあげるまでもなく、国際的細胞バンクからの提供は無償というのが、国際間の暗黙の取り決めだったからだ。 ■「神話を守れ」韓国ブログが炎上 頂点を極めた黄教授だが、この時点で、すさまじい転落劇はすでに幕を開けていた。 2005年5月に論文をサイエンス誌に発表した際、前年ネイチャー誌が指摘して以来、くすぶっていた不適切な卵子寄贈疑惑が再燃。2005年11月12日には、共同研究者のシャッテン教授が突如、卵子の入手方法に倫理的問題があったとして、黄教授チームとの協力関係を終えると発表した。 困惑する韓国世論に追い討ちをかけるように、ネイチャー誌は11月17日号で「規制機関よ、立ち上がれ(Will the regulator please stand up)」というタイトルで、真相を明らかにしない研究者と韓国政府の姿勢を名指しで批判する論説記事を出した。 韓国研究グループや韓国保険福祉部(日本の厚生労働省にあたる)が「倫理的問題はなかった。法違反もヘルシンキ宣言の抵触もなかった」と釈明に躍起になる中で、韓国の大手テレビ局「MBC」が、このデータ捏造疑惑を、なかば強引な取材方法をもって報道し、韓国国民に衝撃を与えた。 そして、11月25日、黄教授は、ついに、研究員の卵子の使用と、一部の卵子提供者に実費相当の金銭授受があったことを認めたのである。黄教授は謝罪し、細胞バンク所長の辞任を発表した。 これを受けて、今度は、実質的に韓国最大のメディアであるインターネット・ブログ空間が、文字通り「炎上」した。国民的な英雄である黄教授を擁護する人々からの反論が相次いだのである。MBCの掲示板には「制作会社を国家保安法で処罰せよ」「多大なる国益の損害」の書き込みがあふれ、超党派の国会議員による黄教授救済協議会が発足。研究・治療目的のための卵子寄贈を支援するポータルサイトでは、500名以上の女性が「卵子提供同意」の意思まで示したのだった。 こうした黄教授擁護論が過熱するにつれ、MBCからのスポンサー降板が相次ぐ。事態を沈静化させるため、大統領府が「もっと冷静に」という声明を出さなければならない状況にまで陥ったのである。 一方で、このブログ炎上に冷たい視線を投げかけていたのは欧米メディアであった。ワシントンポスト、ニューヨーク・タイムス、ル・モンド、フランクフルト・アルゲマイネなどの欧米の主要各紙が、韓国国内の混乱を取り上げ、「メディアが真実を伝えないために国民が混乱している」と報じた。クローン犬「スナッピー」を今年最高の発明品と報じ、一杯くわされた感のある「タイム」誌だが、これに対してCNNは11月24日、「Now Hwang finds himself in the dog house(今や黄教授自身が犬小屋に=今や人気失墜した黄教授、の意)」とアイロニカルに論評したのだった。 ■重複した画像 そして、ついには、黄教授の英雄神話を覆す証拠が、擁護論飛び交うウェブ空間に表れたのである。それは、黄教授の論文に掲載された培養細胞の写真であった。 サイエンス誌、ネイチャー誌などの学術誌は、知的財産への配慮から速報性を重んじ、電子版と呼ばれるウェブ論文の形式をもつ。通常ペーパー記事の1ヶ月前にウェブ上での閲覧が可能になる。 黄教授の論文でいえば、昨年の記事が2月12日付け電子版と3月12日の原著、今年の記事が5月19日付け電子版と6月17日の原著の2種類がある。 問題の画像は、今年5月19日付の電子論文の補足資料で、患者11人から採取した培養細胞がそれぞれ生育していることを示した複数の写真が、実は同じ培養細胞を撮影したものだったことを、12月5日、ニューヨーク・タイムス紙の電子版が報じたのだった。黄教授はサイエンス誌の問い合わせに対し、電子メールの回答で事実関係を認め、「コピー・ミス」と釈明しているという。 ここに韓国の生命工学領域の国家戦略は終焉した。以上が今回の事件の顛末である。 |
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