「人種平等」へ動いた日本の歴史につらなった首相の訪米
榊原智 (産経新聞 論説委員長)
2カ月ほど前のことになりますが、訪米した菅義偉首相とバイデン米大統領による4月16日の首脳会談で、もう少し注目されてもよかったやり取りがありました。
菅首相が会談後の共同記者会見で、次のように明かしたものです。
「バイデン大統領とは、全米各地でアジア系住民に対する差別や暴力事件が増加していることについても議論し、人種などによって差別が行われることは、いかなる社会にも許容されないことでも一致致しました。バイデン大統領の『差別や暴力を許容させず、断固として反対する』との発言を大変心強く感じ、アメリカの民主主義への信頼を新たに致しました」
米国では新型コロナワクチンの接種が進み、国情は落ち着きつつありますが、コロナ禍の中で、アジア系の人々に対する差別や暴力事件が米国で続発したことは忘れてはなりません。
これは人種に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)に位置づけられ、被害者には邦人も含まれています。
新型コロナウイルスが中国湖南省武漢市から広がったことが「反アジア系感情」が高まった理由でしょう。同じような問題は欧州でも報じられました。
人種や民族、国籍によって人が差別されたり、暴力にさらされることはあってはならないことです。これは邦人であれ、中国人であれ、他のアジア系の人であれ同じことです。このような事件が起きたことは、その国の恥といえます。
今は、英国で先進国首脳会議(G7サミット)が対面形式で開かれるようになりましたが、米大統領就任後、対面での初の首脳会談の相手として招かれた日本国の首相が、米国の人種をめぐる問題を指摘した意味合いは重いものがあります。そして、バイデン大統領がこれを真摯に受け止めたことは、米国の民主主義の美点を示しているでしょう。
片方の国で起きた不正義を率直に語り合えたことは、日米同盟が強固な信頼関係にあることを示したということもできます。
人種差別は根絶されなくてはなりません。
日本ではこの日米首脳会談について、共同声明に「台湾」が52年ぶりに盛り込まれた点が大きく報じられました。
それは当然ですが、アジア系への差別、ヘイトクライムが会談で取り上げられたことが注目されなかったのは残念でした。
近現代の世界の歴史を振り返れば、日本は人種差別をなくすために奮闘努力した国だといえます。
その認識が日本社会で広く共有されていれば、アジア系差別をめぐる菅首相の問題提起は、もっと耳目を集めたと思われます。
今から102年前の大正8年(1919年)のパリ講和会議(ベルサイユ会議)で、日本が人種差別の撤廃を唱えたことを知っている日本人がどれだけいるでしょうか。
パリ講和会議は第1次世界大戦の後始末とともに、国際連盟の創設を決めた歴史的会議でした。日本はそこで、国際連盟規約の起草委員会(国際連盟委員会)に加わり、同規約に人種差別撤廃条項を盛り込むよう提案したのです。
これは日本の人種平等提案ともいわれますが、植民地を持つ欧米諸国の一部から反対が出て成立しませんでした。そうであっても、有色人種の国が国際会議で人種差別に大きな声で異議申し立てをした人類史的出来事だったのは間違いありません。
第1次大戦が起きた大正3年(1914年)の時点で、欧米諸国は世界面積のうち84%を支配していました。有色人種の地の大半が欧米の植民地にされ、人々は差別や搾取に苦しんでいたのです。米露など本国内に多くの有色人種を抱えていた国でも同様でした。アジアで独立していたのは、日本とタイ、ネパールなどで、他には、革命後の混乱が続く中華民国があるくらいでした。
明治維新を経た日本は、日露戦争で、有色人種の国として近代になって初めて白色人種の大国に勝利し、世界の有色人種の人々を勇気づけました。第1次大戦でも戦勝国となり、パリ講和会議では「5大国」の一員として遇されました。
日本は当初、国際連盟の創設に慎重な姿勢をとっていたのです。それは、肌の色で公然と差別される世界だったため、日本は「国際間に於ける人種的偏見の猶未だ(なおいまだ)全然除去せられさる現状に鑑み右連盟の目的を達せんとする方法の如何に依りては事実上帝国(=日本)の為め重大なる不利を醸(かも)す虞(おそれ)なき能はす」(国会図書館憲政資料室「牧野伸顕関係文書」より)と懸念していたからです。
その後、連盟創設の流れとなったため日本も賛成に転じ、連盟規約に人種差別撤廃を盛り込ませようということになりました。これは日本人のみならず、有色人種に対する差別をなくそうというものでした。
規約案をめぐる採決で、日本の提案は賛成11、反対5で賛成多数となりましたが、議長のウィルソン米大統領が重要事項は全会一致を要するとして不成立にしてしまいました。
反対に回った米英の国力は世界を圧していましたから、日本は同意せざるを得ませんでしたが、牧野全権はその後の連盟国総会議において「今回は之以上我提案の採用を固執せさるも将来機会ある毎に目的の貫徹に就(つ)き主張するを怠らさるへし」(牧野伸顕「回顧録(下)中央文庫」より)と演説し、全文を議事録に掲載させました。総会議後、英国全権のロイドジョージが牧野のところへやってきて握手を求め、「日本の態度に敬服する」(牧野前掲書)と言いました。
日本の人種平等提案は世界でも反響を呼んでいました。
米国回りでパリに赴いた日本全権団は、米国の黒人社会から大歓迎されました。全米黒人新聞協会は、「われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で〝人種問題〟について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」(レジナルド・ガーニー著「20世紀の日本人―アメリカ黒人の日本人観」より)とのコメントを発表しています。
日本の提案が採用されなかったことへの失望は大きく、米国では多くの都市で人種暴動が起きました。100人以上が死亡し、数万人が負傷したといいます。
日本はその後、大東亜戦争(第2次世界大戦)を「人種的差別の撤廃」を掲げて戦いました。
昭和18年(1943年)11月には、東京の帝国議会議事堂(今の国会議事堂)で、アジア7カ国が世界初の有色人種の国によるサミット「大東亜会議」を開いています。日本、中華民国(南京政府)、タイ、満州国、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)とオブザーバーの自由インド仮政府です。
日本の敗色が感じられるようになった時期でしたが、それでも7カ国の代表が集まりました。それを日本の強い要請があったからにすぎないとみるなら、当時の人々の人種差別や欧米植民地支配への憤りを軽んじることになると思います。
この会議は、「大東亜各国は万邦との交誼を篤(あつ)うし人種的差別を撤廃」するとして、人種平等の原則を掲げた「大東亜共同宣言」を世界に発信しました。
日本は敗れたもののアジア・アフリカ諸国の独立につながっていきました。昭和30年(1955年)4月、インドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議、A・A会議)で、招待された日本の代表団は大歓迎されています。
アジア、アフリカの新興国の代表らは「よく来たね!」「日本のおかげだよ!」と日本代表団に声をかけてくれました。アジア・アフリカ各国の代表たちは、わずか10年前に終わった日本の戦争を、アジア独立に貢献したという文脈で語っていました。
昭和37年(1962年)1月24日の衆院本会議で、小坂善太郎外相(当時)は「ベルサイユ会議(=パリ講和会議)以来率先して、この人種差別(の撤廃)ということにはわが国としてやっておるのであります。従って、この(欧米植民地からの解放と人種差別撤廃という)2つの問題については、特に日本の主張というものは非常に正しく、しかも実際的であるということにおいて、多くの国の尊敬を得ておるのであります」「私は外務大臣として責任を持って、国際間において、国連(国際連合)において、(日本は)そういう立場に立っておるということを申し上げて」いると述べています。
これは、日本の国連加盟からわずか4年後の答弁です。「多くの国」とは、独立して間もないアジア・アフリカの国々が中心だったのは言うまでもありません。
戦後の日本の経済成長も世界の人種差別解消に寄与したのは疑いないでしょう。
近現代の日本が世界で果たしてきた歴史的役割を現代に生きる私たちは思い起こし、人種差別の根絶に努めたいものです。菅首相が日米首脳会談においてアジア系差別の問題を取り上げたこともその一環としてとらえられると思います。
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榊原 智(産経新聞 論説副委員長)
◇◇榊原智氏の掲載済コラム◇◇
◆「中国政府によるウイグル人女性への性暴力問題を取り上げよ」【2021.2.16掲載】
◆「日米豪印(クアッド)は台湾と協力を」【2020年11月10日掲載】
◆「抑圧の習近平政権・・・香港旧宗主国の評判のよさを恥と知れ」【2020年7月7日掲載】
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