自由な立場で意見表明を
先見創意の会

平沼直人 (弁護士、医学博士)

存在と無

第二次世界大戦後,実存主義を社会的なブームにまで押し上げたジャン=ポール・サルトルの主著が,『存在と無』(L’être et le néant, Gallimard, 1943)である。

しかし,副題に,「現象学的存在論の試み」(Essai d’ontologie phénoménologique)とあるとおり,大方の読者の期待を裏切って,深遠な無の思想は鳴りを潜め,現象学,すなわち意識の志向性に関する考察が展開される。
ここで,“存在と無”とは,存在と存在で無いもののことであり,存在とは,“現実存在”つまり人間のことであるから(現実存在の中の2文字をとって“実存”とつづめる),存在でないものとは,人間でないものということになり,現象学的に言うと,それは意識のこととなる。人間存在そのものを即自存在,これに対して,意識を対自存在と呼ぶ。

整理すると,存在と無の無とは,意識のことであり,意識は,対自存在(“それがあらぬところのものであり,それがあるところのものであらぬもの”と定義される)と言い換えられる。それだけと言えば,それだけの話である。

なお,サルトルの真骨頂は実存主義にこそある。最も人気の高い『実存主義とは何か』と題した講演録の原題は,L’existentialisme est un humanisme,直訳すれば,実存主義はヒューマニズムである。

なぜ世界は存在しないのか

マルクス・ガブリエル(1980-)は,旬の哲学者である。思想界,久々のスターである。
『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ・2018年)は,彼のベストセラー(清水一浩訳。原題は,Warum es die Welt nicht gibt, 2013)。
彼の論証は,存在するとは,何らかの意味の場(field of sense : FOS)に現象することであるところ,世界とは,すべての意味の場の意味の場であるから,世界自体が現象できる意味の場は論理的にあり得ない以上,世界は存在しないということになる。
サルトルの存在と無とは,また別のがっかり感は否めまい。

なお,彼は新実存主義を名乗る。脳科学に還元できない心の哲学の復権を目指しているようだ。
「人間のあり方は,自分自身をどうとらえるかに本質的に左右される」といった彼の言説は(廣瀬覚訳『新実存主義』岩波新書・2020年),実存主義者サルトルのかのあまりに有名な言葉,“実存は本質に先立つ”,そのままではなかろうか。

マルクス・ガブリエルの存在論は,“新しい存在論”に属し,古代から連綿と続く形而上学の立場にも,ポストモダン(1980年代から90年代にかけて思潮的流行を作った)の構築主義(Konstruktivismus)の立場にも与せず,常識的な思考を展開している。
構築主義は,およそ事実それ自体など存在しないとする徹底的な相対主義であり,理論物理学など最先端の科学知識に依拠している。
彼の構築主義に対する批判や真理への肉薄よりも分かりやすさを優先するかのような姿勢を見ていると,あのソーカル事件に対して過度に憶病になっているのではないかとの疑念が湧く。

ソーカル事件

ポストモダニズムの認識的相対主義の論者が科学的概念を誤用したり術語を無意味に濫用したりすることを日頃から苦々しく思っていた物理学者のアラン・ソーカル(1955-)は,とんでもない悪戯を仕掛けた。ポストモダニズムを模した「境界を侵犯すること――量子重力の変形解釈学に向けて」なるインチキ論文をでっち上げ,アメリカのポストモダニズム系の学術誌に投稿し,査読を経て,まんまとサイエンス・ウォーズ特集号での掲載を勝ち取ってしまったのである。内容はと言えば,思想的にも物理・数学的にも出鱈目の極みであった。

ソーカルの論文が掲載され,彼が別の雑誌で種明かしをした1996年に,ポストモダニズムは半殺しの目に遭った。続けて,彼がジャン・ブリクモンと共著で出した『知の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』(田崎晴明ら訳・岩波現代文庫・2012年。原著は,フランス語版1997年,英語版1998年)では,ラカンやクリステヴァ,ドゥルーズとガタリら錚々たるメンバーがやり玉にあげられ,特に精神分析学は甚大なダメージを被った。

無門関

だが,ソーカル事件は,所詮,西洋的なパラダイムの中での内ゲバのように感じられる。

ウィーン大学で理論物理学を修めたフリッチョフ・カプラは,『タオ自然学』(1975。吉福伸逸ら訳・工作舎・1986年改訂版)で現代科学と東洋神秘思想との親近性を説いた。
カプラは,同書で,“趙州(じょうしゅう)無字”の公案として知られる謎掛けを紹介している。

公案と言えば,隻手音声(せきしゅおんじょう。両手を叩くと音がするが,では片手ではどんな音がするか?)を想起される方も多かろう。趙州無字の公案は臨済禅では非常に重視されて来た。その人口に膾炙した公案は,中国宋代の禅僧,無門慧開(むもんえかい)の公案集『無門関』四十八則の劈頭を飾る。この門無き関門,すなわち無門関を通らねば,悟りの境地は開かれない。

<原文>
趙州和尚 因僧問 狗子還有佛性也無     
州云 無

<訓読文>
趙州和尚,因みに僧問う。狗子(くす)還(は)た仏性(ぶっしょう)有りや。
州,云わく,無。

<現代語訳>
趙州禅師は,ある修行僧から,「犬にも仏性がありますか?」と聞かれた。
すると,趙州禅師は,「無」とお答えになった。

釈迦の教えは,「一切衆生(いっさいしゅじょう),悉有仏性(しつうぶっしょう)」,つまり,生きとし生けるもの,みな仏性ありだ。犬にも仏心が宿る。
となると,なぜ高僧は無と言ったのか?????

サルトルもマルクス・ガブリエルもソーカルも,無門関の前では,ただ立ち尽くすのみなのではあるまいか。

◆本テーマに関連するその他の文献◆
サルトル『嘔吐』(La Nausée)1938年
ロカンタンはマロニエの木を見て突然,吐き気(nausée)を催す。存在するということそのものの持つ不気味さ。
トマス・ネーゲル『理性の権利』(大辻正晴訳)春秋社2015年
ソーカル事件につき,「理性の眠り――哲学者の見た『サイエンス・ウォーズ』」
柳田聖山・梅原猛『無の探求〈中国禅〉』角川ソフィア文庫1996年
梅原「禅が無字になっていく過程で,やはり不気味さがなくなる。だから無であると言いながらたいへん合理的なものになっているんです。」(249頁)
中村昇『西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か』講談社選書メチエ2019年
「『純粋経験』は,かぎりなく〈無〉に近いものだといえるのではないか。」(38頁)
シモーナ・ギンズバーグ,エヴァ・ヤブロンカ『動物意識の誕生 上』(鈴木大地訳)勁草書房2021年
現代科学でも意識とは何かがまだ分かっていないことが分かる。
広井良範『無と意識の人類史』東洋経済新報社2021年
著者は『医療の経済学』(日本経済新聞出版1994年)等で知られる。

ーー
平沼直人(弁護士・医学博士)

◇◇平沼直人氏の掲載済コラム◇◇
「”賠償科学”を知って欲しい!」【2021年5月6日掲載】
「美少女画」【2021年4月6日掲載】
「性」【2020年11月24日掲載】
「成年後見人の医療同意権」【2020年11月5日掲載】

☞それ以前のコラムはこちらからご覧下さい。

2021.07.27