自由な立場で意見表明を
先見創意の会

コロナ禍は地域医療構想にも影響を及ぼすか?

佐藤敏信 (久留米大学教授・医学博士)

地域医療構想の思想

地域医療構想は、2025年の医療ニーズの推計に基づき、それに対応する医療体制を作るとして、厚生労働省の主導の下、地域の関係者が協力して、医療機関の役割分担や連携の仕組みの構築を模索しているところであり、2018年4月から始まった都道府県の地域医療計画にも位置づけられている。そもそもこの構想は、生活習慣病や慢性疾患の診療を想定して、つまり「平常時」を想定して設定されている。また、その根底には、高齢化の進展に伴い、高度急性期や急性期医療のニーズは減少するので、各医療機関はそれを見越して対応すべきであるとの考えがある。もっと踏み込んで言えば、そうした病床の整理・統合を進めて欲しいとの思いが込められている。今回のコロナ禍の状況に照らして、この一連の考え方をなぞってみると、残念ながら「余裕を見込んでいない」ものだったと言わざるを得ない。感染症に限らず、風水害、地震も含めて、「有事」に臨機応変に対応できない内容だったと言うべきだろう。

機能に着目した病床の分類

地域医療構想における高度急性期・急性期等の病床の分類は、他に簡便な方法がないこともあって、便宜的に医療資源投入量によって区分されたが、これも実際に使用する機器や診療の内容、つまり真の対応能力を加味して分類する方法もあったのではないかと思う。そうすれば、今回のような事態にあっても、人工呼吸器やECMOの使用が可能な医療機関の見極めも容易で、患者の迅速な受け入れや搬送に有効に働いたのではないか。実は、厚労省も元々はそう考えていたようだが、今日に至るまで見直されないままである。

地域完結型?

加えて言うと、2013年の社会保障制度改革国民会議報告書において、今後の医療の方向性は「病院完結型」から「地域完結型」への展開なのだとされ、以来、その方向で進められている。しかしこれも、二次医療圏を超えて広域に患者を集められる、急性期から居宅系施設、在宅までを抱え込むだけの力のある大病院やケアミックス型病院の独り勝ちとならないよう、中小病院や診療所に配慮した産物と言えるだろう。今回のコロナ禍では、県をまたいでの重症患者の搬送もしばしばで、必ずしも地域完結ではすまなかったようだ。このことは実は感染症に限らない。米国を見ても、稀少ながんの診療などでは最善の医療を求めて州をまたいで患者が移動している。これは医療の効率的な提供という意味でも有効だ。そもそも、地域完結のためには、医療機関は元より介護関係の機関との連携が重要だが、医療や介護のサービスは、他の財やサービスと異なり個別性が高く、情報の非対称性が生じやすい。そうならないようにするためには、関係者間の膨大な協議や情報交換の時間・手間が必要になる。安易に「地域で完結」という言葉を使うことには賛成できない。

総合的に診療できる体制

ところで、今回、「たとえ軽症であっても新型コロナの患者には対応できない」とする医療機関があったと聞く。平時でも余裕がないのに、手間のかかる感染者を受け入れること、そして他の患者さんへの影響もあることを考慮すれば、そうした気持ちになることも大いに理解できる。それでも、災害時を含めて高度な医療を適時適切に提供するのが、医療のあり方であるとするなら、そういう体制を作っていくしかない。

一方、今回のコロナ禍で、むしろ「ヒマ」になった診療科があったと言う。これは、個々の医師が総合診療的な能力を身に着けないまま専門分化が進行している(した)結果だろう。「(その領域(今回で言えば感染症)は)専門でないのでわからない。」という医師が増えてしまったということだ。今後は、感染症を含む医師の本来あるべき総合診療的な能力を評価し、これを診療報酬上も評価する必要があるだろう。もちろん専門でない領域での診療にかかる事故、不具合等の際の医師の「良きサマリア人」的な免責の規定は別途検討しておく必要があろう。

そもそもの感染症対策にも問題があった

一連の問題は、地域医療構想とその検討組織にだけ責任があるわけではない。感染症の場合で言うと、伝染病予防法を廃止し感染症法を制定した際に、先人たちの知恵である感染症とそれ以外の疾患との「分離※注」を放棄・軽視したことが大きい。古くは避病院、近年では伝染病隔離病舎において、他の疾患・患者とは明確に分離していたのに、もはやコントロール可能とみなして通常の疾患の一類型に位置づけなおし、同一の建物内で診療するようにしたのだ。結核対策の観点からも、外来における患者の動線の分離の重要性が強調されてきたのだが、なかなか実行には移せていない状況だった。感染症は「感染」するがゆえに、他の疾患とは切り分けて「社会防衛」するとして公衆衛生という分野が確立したはずだったのだが、過去のある時点で、関係者の中から「感染症はもはや脅威ではない。」との言葉まで出てきたことを思い出す。

もちろん分離さえすれば、今回の新型コロナの蔓延が防げたとは思わない。今回の蔓延の程度と感染のパターンは特異的で、とりわけ重症者にあっては、人工呼吸器やECMOの使用など、日ごろは感染症とはかかわりが少ないと思われていた救急科の手を煩わせることになった。つまり、かつてのように「感染症の患者は、社会防衛的な観点から分離(隔離)さえしておけばいい」ではなく、検査や治療の手段があるのであれば、積極的に行い患者個人の健康の回復や救命を目指し、同時に社会全体も防衛する時代になったのである。

想定外の事態に備える覚悟は

話を地域医療構想に戻すと、こうした「想定外」の事態にどう対処すべきなのだろうか。振り返れば1916年のスペイン風邪以来、実に100年ぶりのことである。今の政府と国民に、100年に一度起こるかどうかわからない程度の感染症・災害に備えるだけの、十分な資源の投入の決意と覚悟はあるだろうか。三陸沿岸の大津波(100年間に3回)や、球磨川の氾濫(10年に1回程度)への対応を見るに、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」が、これまでの我々の態度ではなかったか。

おわりに

今回の反省を元に、地域医療計画の中に新興感染症対策を位置付け、現行の「5疾病・5事業および在宅医療」を、2024年度からの第8次計画で「5疾病・6事業および在宅医療」へと見直すとの報道があった。しかし、単に「感染症」を追加して終わりとするのではなく、ここまで述べてきたような歴史や現実を十分踏まえたものにしていただきたいと思う。

※注:いわゆる隔離を含む。完全に別の建物とすることもあるだろうし、動線を分けるだけということもあるだろう。

ーー
佐藤敏信(久留米大学教授・医学博士)

◇◇佐藤敏信氏の掲載済コラム◇◇
◆「コロナ禍の中でウイルスの生存戦略に思いを巡らし、我々の取るべき態度を考える」【2021.4.20掲載】
◆「コロナを「正しく恐れる」とはいうものの」【2020.12.22掲載】
◆「コロナ禍の中でわが国の感染症の歴史を知る」【2020.9.8掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2021.08.03