Homo Stultusと称される
細谷辰之 [日本医師会総合政策研究機構 主席研究員]
言問橋を通るたびに思う。ホモ・エレクトスは立派であると。その名にふさわしい存在であった(らしい)と。(実際に会ったわけではないが、現在までの古人類学や生物学の成果を信じる限りそう評価しても間違いはなさそうである。)直立していた(らしい)のである。しかも、この名は自称ではなく、他者の評価に基づいて名付けられている。彼らをホモ・エレクトスと称したのは彼ら自身ではなく、ホモ・サピエンス・サピエンスと自称している別種のサルである。
昨年ここのコラムで、我々人類は、パンデミックの渦中で危機に立たされていることを契機に、進化の歩みができるのではないか、みたいなことを書いた。通常の日々の中では、なかなか是正もできず、その前に気がつくこともない社会の歪みや矛盾を、この時だからこそ、炙り出し、是正できる稀有な機会が、パンデミックへの対応の中にあるのではないかという認識である。もちろん、期待される進歩をとげ、種として進化するには、条件は必要になるであろう。僕はそのヒントが、視野と視座にあるような気がしてならない。ずっと先まで見通す、あるいは見ようとする視野と、鳥瞰的に全体を見ることのできる視座である。
国家にしろ、自治体にしろ、WHOのような国際機関にしろ、広がる感染症への対応を余儀なくされ、また個人に対しても、求められるであろう対応を要求してきた。我が国では、この要求の仕方に日本の議会制民主主義が抱えている課題が見える。COVID-19がこの国で問題として認識されるようになってから今日まで、首相、担当大臣、都道府県知事などは国民、都道府県民に対応を求めるメッセージを星の数ほどに発してきている。そしてそのほとんどが、腰低くして、首を垂れ、政策の遂行のために「国民の皆様」「都(道、府、県)民の皆様」にご不自由をおかけし、ご迷惑をおかけしていること、することを謝罪し、なんとか、「感染者を増やさないため」「逼迫した医療を崩壊させないため」に「ご協力」をお願いしたい、そういうメッセージであったと思う。しかし、これらのメッセージは、期待できる反応を作り得たのでろうか? 議論がおかしな屈折を起こすことにつながっていないだろうか?
政府や都道府県の政策が正しいか間違っているかの評価は難しい。新型のウイルスの特性が明確にわかっているわけではない現状で、完全な対策はあり得ない。ここは危機管理の問題として予想しうる最大の危険を想定し、現時点で合理的だと思われることをやる以外に対処の方法はない。
現在、COVID-19によるパンデミック下にある我々には、この感染による脅威から自分の命を守る努力をすること、次に周囲のヒトや他の人々を守る努力をすることが求められている。これが本質で、政府や、都道府県のすすめる「自分たちと関係ない」何かを実現するために、(不便さ、生活の困窮、業の破綻の危険性を顧みず)協力することではない。すなわち「国民」「都道府県民」は、政府や都道府県の遂行する政策に協力する第三者ではなく、我が身と自らの社会を守るために参加する主体者でなければならないのである。これを踏まえたメッセージを政府は出さなければならない。しかし、ここに見られる誤謬は、今回のパンデミックが始まる以前にも存在してきた。日本国民は、主権者である自覚が希薄になり、国政に対してはあたかも顧客であるかのような態度を貫いてきた。減少しているとはいえ、いまだに1億を超える人口を持つこの国で、直接国政との関わりを感じることは難しい、自らの参加で国が変わるとは考えにくい。一方で、1人の非合理な行動の結果が周囲に、重大な不利益をもたらすパンデミック下の社会では、「参加」の必要性に気がつく環境が整えられているのである。この国の議会制民主主義を進化させる、貴重なチャンスが目の前にあると言い得る。難しいことではない、将来を見渡そうとし、事態を俯瞰的に眺めてみればいいのである。
(蛇足その1、民主主義国家において、主権者である国民は、為政者が主催する闘技場での娯楽に喜んで我を忘れてはいけないのだと思う。マタイによる福音書の中でイエスは、旧約聖書申命記のモーゼの言葉を引用し、「人はパンのみにて生きるにあらず」と諭した。人はパンに心を奪われがちであるが、パンに心を砕くとき、今日のパンだけでなく、明日以降のパンのことも気にかける必要がある。為政者が約束するパンについても、今日明日だけのパンなのか、来年、10年先のパンも含まれているのかよく見なければいけない。現在の議会制民主主義下の日本で、増税を公約に掲げて総選挙を戦った総理大臣は1人しかいない。政治家が選挙に勝つことだけを優先すると非難されるが、そうした政治家を産み育てているのは、顧客として国政に向き合い、今日だけのパンを欲し、闘技場での娯楽に熱狂しがちな国民の姿勢かもしれない)
(蛇足その2、政府や都道府県の発信してきたメッセージで、違和感を禁じ得ないのが、「医療を破綻させないために行動抑制をお願いする」というメッセージである。これにより医療のためにみんなが我慢させられているんだと感じる人も少なくないであろう。破綻しかけている医療を守ることは、医療産業従事者の所得を守ることではなく、自分たちの命を守ることにほかならない。これをわかってもらわなければならない。医療を守ることは手段であって目的ではない。最近の議論を聞いているとそのあたりに誤解と誤謬が蔓延しているように感じる。「この感染症の蔓延はとても危険です。あなた自身を守るために感染対策を徹底してください。我々の進める感染対策に参加してください。(協力ではない)。あなた自身を守るためです。」というメッセージを発信していくべきじゃないか?)
次に、このパンデミックへの対応の中、我々は、また別の進化の機会に直面しているように思う。すなわち、個人の自律的選択の合理性の精度を上げることと、変化への対応に必要な態度を身につけるという進化である。短期的に成果を上げようとすれば、全体主義的コントロールが手っ取り早い。強力な中央政府が力ずくで民衆をコントロールすれば、行動抑制も、人流の削減も一気にできる。しかしそれでは人々は判断力を失い、自ら行動ができない存在になってしまう。自由な発想や議論が阻害され、来るべき未来に知恵を生み出す土壌が枯渇してしまう。この先何が起こるかわからない将来に向けて、とり得る選択肢を狭めてしまうのである。安易に短絡的に、簡単な解決策に飛びつくのではなく、もちろん即応的な対応はやりつつも、人類が、その名に相応しくよりサピエンスなホモに成長する道を選ぶべきなのである。目の前の問題解決と、今日のパンに翻弄されがちな日常にあっては困難であっても、人類社会が予想をしなかったCOVID-19のパンデミックの最中だからこそ、安易な道の危険性が想像できる。(はずである)
変化に対応できる態度を身につける進化も、平時に達成することは困難に思える。基本的に大多数の人は変化を恐れるのではないか? 特に外からの力で、変化せざるを得ない時、新たな習慣ややり方を受け入れざるを得ない時、人は往々にして拒否反応を示し、自己の権利を侵害されたとさえ感じる。そう思えるがどうであろう? 新たな事業を起こそうとする人に対して、頑強に抵抗し障害となる人々は、既得権が脅かされないとしても、それによって何かを失うわけでなくても、ただ反対していることが少なくない。新しい生活様式も、ただ新しいからという理由で受け入れることが拒まれることも珍しくはない。環境の変化に対応するための生活様式の変化も、差し迫った状況が強要しない限りは受け入れられない、という人は多い。
温暖化などの気候変動による地球の危機が叫ばれるようになって久しい。しかしこの変化に対応した生活様式の変化、経済活動のあり方の変化への解決策の提示も、浸透も遅々として進まない。ギリシャ、イタリア南部、トルコ、カリフォルニアで現在起きている気温の上昇による山火事、我が国でも今まさにその渦中にある集中豪雨、明らかに異常な事態である。しかし未だに人類が積極的に行動変容を開始するほどではない。現在の気候変動の原因が人類の経済活動や、生活様式にあるという学術的な主張は多々ある。その主張の信憑性も一般に受け入れられている。それでも明確に疑いない因果関係が明示され、さらに生存環境が劇的に悪化しない限りは人類社会の大きな変化は起こらないのではなかろうか。(変化への十分条件としての劇的変化が起こった時では、時すでに遅しになりかねないが)その点、感染症によるパンデミックは、明確に、ほぼ疑いない因果関係が明示され、身近に生命の危険を感じられる条件が整っている。変化に対応する態度を学習する稀有な機会である。ここで進化を遂げることができれば、気候変動への対応ももう少しマシになるのではないかと期待している。
最近、キリンの首の長さが気になって仕方がない。本を読み漁ったり、論文を当たったりしてみたが、なかなかこれはと思う回答に辿り着かない。2016年にキリンのゲノム配列が初めて解読された。同時に現存の唯一の近縁種であるオカピのゲノム配列も解読された。キリンとオカピの祖先が分岐したのは1150万年前とされている。人の祖先がチンパンジーの祖先と分岐したのは500万年前から700万年前であるとされているので、それよりも遥かに昔の出来事である。キリンとオカピの共通先祖は、現在のオカピと同様に森の中にすんでいた。やがて分岐した後キリンの先祖だけが草原に出て大型化したと考えられている。共通先祖はキリンのように長い首を持っていたのではなく姿はオカピに近かったようである。キリンの首は草原に出て長くなったのであるが、全てのキリンの首が長くなったわけではなく、現在では首が短いままのキリンもいたらしい。「キリンの首はなぜ長くなったのか」の解に行きあたらないように、「なぜ首が短いままのキリンは絶滅したのか」についてもはっきりとはわからないようである。いくつか見つけた仮説の中で面白かったのは、首が短いまま草原で大型化したキリンは、水を飲むためには、膝を折らなければならず、水辺で草食動物を襲う捕食者から逃げるのに不利であったからという説である。
知性がある我々は、生存の確率を高める変化を自ら行うことができるはずである。進化を制御することも可能かもしれない。偶然の機会を的確に捉えて活かし、水の飲みにくい首を持つような進化を避ける道を歩むこともきっと可能なはずである。と思いたい。
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細谷辰之(公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員)
◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
◆「日本の医療のグランドデザイン2030の核心」【2021年4月27日掲載】
◆「出アフリカ記」【2020年12月29日掲載】
◆「行く道の選択と選択肢の選択」【2020年8月25日掲載】
☞それ以前のコラムはこちらから