自由な立場で意見表明を
先見創意の会

Auf Flügeln des Gesanges

細谷辰之 [福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事]

僕には、和歌を詠むと、作者の意図を離れ、いろいろなことを思い起こす癖がある。それで最近、頭の中をよぎる歌とそれに引き摺り出された思いの色々を書こうと思い立ってみる。歌の翼に乗せる「君」のいない僕が、和歌の翼の羽ばたきに思いついたことどもを書き連ねようということである。歌と言っても、和歌は詩。もちろんLiedとは異なる。根本にあるであろうラテン語のcantusに詩という意味が含まれるかどうかも知らない。

「秋は来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」
 
確かに、言われてみれば、秋はその訪れを、音で示しているように思える。実際、僕の今までの人生の中で、「あ!秋が来た!」ということを何をきっかけに感じてきたか、思い出してみて本当にそうだとは断言できないが、言われてみればなるほどと思う。このことを認識した時に、この歌に触発されて、春の訪れを歌に詠もうと決心した。大学3年の冬のことである。以来、冬が終わりそうな気配が感じられると急にソワソワし、じわじわと焦りだす。しかし残酷なことに、春がきた!と感じられる時間はとても短い、宇宙の歴史を考えたりしなくても、ほんの一瞬のことである。あっという間にすっかり春になってしまう。題材としては、沈丁花の香りか、紅梅の香りか、姿は見えないが、夜風に香る、みたいなのがいいなとか思いながら40年あまり。未だ、発句さえ浮かんでこない。今年も立派に「時」を逃してしまった。

これにとどまらず、この時にしかできないことを、できるタイミングを捉えてやり遂げる。これは本当に難しい。やらなくていい言い訳、先延ばしにしていい理由、そんなことを探して、四の五の言っているうちに「時」は去る。「春の訪れを歌に詠む」、このための「時」は一年たつとまたやってくる。しかし、もう2度と帰ってこない「時」もあるし、ハーレー彗星より再訪のインターバルの長い「時」もある。

パンデミックの最中だからこそ、危機が訪れることを想定し、今までの制度や習慣や生活様式に疑問を持ち、是正することを、多くの人が納得できる。ただし、かつての日常が戻るとなれば、多くの人はすっかり忘れてしまうだろう。この「時」もなかなか戻ってはこない。

「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」

僕は、霊長目の類人猿、ヒト族の中のヒト属に属するホモ・サピエンス・サピエンスと称される(自称する)猿の1個体である。これを読んでいる人もあまねく、ホモ・サピエンス・サピエンスと称される猿の1個体であろう。

「賢い・賢い・ヒト」。この名称は自称である。同時期に共存していたと思われる、同じホモの中の、立派にその名に相応しく直立したホモ・エレクトスか、あるいは可愛らしいホモ・フローレシエンシスが、「あの人たちは賢くて賢いので、ホモ・サピエンス・サピエンスと称してもらおう」と言ったわけではない。あくまで自称である。この自称、時々本当に恥ずかしくなる。その都度実際に赤面している。同じような過ちを繰り返しているだけなのに「歴史は繰り返す」なんてあたかも運命のせいかのごとく誤魔化してみたり、惰性を伝統と言い換えて思考停止させたり、明日の経済合理性を追求するあまり資産と資本を食い荒らし、破滅の道を辿ってみたり、そして何より「人類」というアイデンティティーが持てなかったり。早くとまでは言わないが、せめて死ぬまでには人間になりたいと日々思う。

「身を分けて 見ぬ梢なく 尽くさばや よろずの山の 花の盛りを」

世の中をむなしきものと知る前に、(知ることもなく、知りつつもそれを乗り越えて、)経験したいことがたくさんありすぎて、体が一つでは足りないと悩む。これはとても幸福な悩みである。好奇心や興味は生きる気力の源泉で、使命感や、責任感も活力の源になる。金融業に興味があるが、料理もやりたいとか、畑も作りたいが、作陶もやりたい。仕事も頑張りたいが、趣味にも力を注ぎたい。あっちにも行きたいが、こっちにも行きたい。あれも食べたいがこれも食べたい。体は一つしかないので選択をしなければならない。選択し決断を下さなければならない。選択の決断をするのは難しい。場合によっては苦しくもある。僕は、絵に描いたように優柔不断なので、選択をし、決断をすることがとてつもなく苦手である。うじうじと考え、時間を浪費し、「時」を逸する名人である。
ただ、大概の場合、選択の困難に苦しむことは、幸せな苦痛である。
シェークスピアがハムレットに強いた類の選択の苦痛は、全く幸せにはつながらない。

「七重八重 花は咲けども 山吹の 味噌一樽に 鍋と釜敷」

大概の駄洒落は迷惑でしかない。言ってる本人は、上手いこと言ったと得意になっていても、聞いている方には苦痛でしかない。重々わかってはいても、言葉の端々、会話の折々にきっかけを見つけてしまうと、駄洒落を我慢するのに大変苦労させられる。この我慢が重なるとダムは決壊し駄洒落が口から奔り出てしまう。後悔先に立たず。空也上人の南無阿弥陀仏なら引っ込めることもできようが、言葉は引っ込めることはできない。〇〇さんの陰口なら、言ってしまったあとで罪悪感から〇〇さんに優しくなれるという有用な副産物もあるが、駄洒落はただ迷惑なだけである。軽蔑という返り血も浴びてしまう。そんな駄洒落でも、誰かがうまくツッコんでくれれば、芸として成立することもある。珠玉のツッコミの後に典雅なやりとりが重ねられれば芸術作品にも進化する(気もする)。うまく組み立てられた語りの中に散りばめられれば、古典落語の名品にさえ昇華する。ゆえに、僕は、ダジャレを言ってしまうたび周囲の人に珠玉のツッコミを要求する。ただし、勝手なことを言わせてもらうが、人の駄洒落はできれば聞きたくない。

駄洒落ではないが、とぼけた雑言には価値があると。SNSでは、日々辛辣かつ残虐な罵詈雑言が飛び交っている。SNSでは、目の前に投げつける当人がいないだけに、遠慮会釈なく罵詈雑言を投げつけあえる。「死ね」とか「おわた」とか「バカ」とか、対面ではとても言えない言葉が平気で発せられてしまう。ここで、せめて、辛辣で残虐な罵詈雑言を、とぼけた雑言、間抜けな罵詈で代用してみたらどうだろう。「おたんこなす」とか「おたんちん」とか「すっとこどっこい」とか。きっと、場が少しは和むか、馬鹿馬鹿しくなって、激烈な言葉の撃ち合いは収まるのではなかろうか?日頃こうした撃ち合いの好きな、荒野のガンマンには、ぜひ一度試していただきたい。

「山の際ゆ 出雲の子らは 霧なれや 吉野の山の嶺になびく」

死後の世界の存在が信じられるかられないかにかかわりなく、この世の存在としては、死は不可逆的なものであろう。今まで、当たり前のように存在していた人が、死んでしまえば跡形もなくいなくなってしまい、ニ度と目の前には現れることはない。この国では15歳から39歳までの死亡原因の一位は自殺である。事故や、悪性新生物を上回っている。20代に限定すれば半数近い死亡の原因が自殺である。人生経験が少ない未熟さゆえに、「死」の重みを十分に分からず、自死を選ぶ人もいるかもしれない(経験が目を曇らせることも多く、加齢により視野狭窄が進み、思慮が浅薄になる個体もたくさんあるが)。ただ、生きていくより、不可逆的な死を選び、人生を終わらせたいと思う若者が少なくないことはなんとかしなければいけない。少なくともそう思うべきである。自殺の動機について、10代ではいじめが多く、20代以降では勤務上の問題が多いと報告されている。自殺をした人が所属していた、学校も企業も、その多くはできれば無かったことにしようとするに違いない。問題発生を恐れる気持ち、組織や個人の保身に走る気持ちは、ほとんどのホモ・サピエンス・サピエンスが持っている。ただそこに身を委ねることは、問題の発生が再び起こり、組織や個人の保身もままならなくなる環境が手付かずで残されることに他ならない。何より、故人が浮かばれない。たった一回しかない人生を諦めるところまで追い込まれた故人が浮かばれない。なんでそうなったのか、どうしたら救えたのか、医療ができることはなんだったのか、最低限どういう仕組みがあるべきだったのか、周囲の個人も、故人が所属した組織も、考え悩むことが必要ではないか?そのほうが、責任逃れと自己保身に汲々とする人にとっても責任の軽減と自己保身につながるはずである。

先週、職場でのパワハラから鬱を発症していた教え子に自殺された人の話を聞いた。その人は、いくつもメッセージを受け取ったにもかかわらず、まさか自分の周囲の人にそこまで追い詰められている人がいるとは想像せずに、たかを括ったと述懐していた。救ってやれなかったとつぶやいていた。パワハラの現場となった会社は、このことを無かったことにしようとしているらしい。無関係だという態度を取り続けているということだ。彼自身も、教え子が自死を選んだことに向き合えていないという。そして、強く「時」を逸してしまったことの重みを感じていると言っていた。

「現世に たゆたふ舟の人なれば 松が枝もなき九重の春」

足りないということを嘆いても仕方ない。足りるようにするか、足りない状態から別の道を探すか、足りないを嘆ききって文学の花を咲かすか。道はいろいろあるはずである。道はいろいろある、と思えない人には、誰かが寄り添う必要がある。道はいろいろあると、気がついてもらえるように寄り添う必要がある。全ての個体を残そうとすることで今の繁栄を手にした、賢い・賢い・ヒトはそうしなければ、賢い・賢い・ヒトと呼ばれるに値しなくなる。

今回の表題をAuf Flügeln des Gesangesとした。その理由には、僕がドイツ語に堪能だったという点は含まれていない。何しろ僕はドイツ語には堪能ではない。堪能でないどころかほとんど何も知らない。このメンデルスゾーンの歌曲の名前のほか、僕が知っているドイツ語といえば、SachertorteとGott Erhalte Franz den Kaiserくらいなものだ。ちなみにSachertorteには山のように泡立てた生クリームを添えて食べるのが正しいと信じている。

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細谷辰之(公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員)

◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
「見たんか?」【2021.12.21掲載】
「Homo Stultusと称される」【2021.8.24掲載】
「日本の医療のグランドデザイン2030の核心」【2021.4.27掲載】
「出アフリカ記」【2020.12.29掲載】

☞それ以前のコラムはこちらから

2022.04.12