怒っているは起こっているかということについてぶつぶつ呟いた結果
細谷辰之 [福岡県メディカルセンター医療福祉研究機構主席研究員・日本危機管理医学会専務理事]
最近と言ってもここ数年のことではあるが、現代のホモ・サピエンスの個体の多くは「怒り」すぎなのではないか、と感じている。あるいは、「怒り」のきっかけを(無意識のうちに、それでも十分虎視眈々と)狙い探しているように感じてもいる。
「怒り」は、ホモ・サピエンスの持つ最も根源的な感情の一つだとされている。これを書くにあたってあちこち当たってみたが、大概のところにはそう書いてある。最も原初的な感情だとか、最も基本的な感情だとか、ニュアンスや言葉は多少は違いながらも、大体同じようなことが書かれている。
すなわち、誰もが、「怒り」の感情を持っても不思議はないということだ。しかし、あまり頻回に怒っていると嫌われる、怖がられる、倦厭される。「器が小さい」とか、「単純だ」とか、「思慮が浅い」とか言われて軽蔑されることも珍しくはない。宗教の教義でも、大概よくないもとしてのレッテルを貼られている。仏教では煩悩の中の三毒の一つ瞋とされ、ローマ・カトリックでは七つの罪源の一つ(第4位、担当の悪魔はサタン)とされている。世界各地に生まれ伝承されてきた民話や、神話の中でも「怒り」により身を滅ぼしたり、重い報いを受けたりした人の話は枚挙にいとまがない。また同時に、滅多に怒らない人は誉められることが多いようだ。「寛大だ」とか、「器が大きい」とかそんな賛辞が贈られる。
つまり、こういうことだ。ホモ・サピエンスは、「怒り」やすいヒトであるが、「怒り」の感情を持ったり発揮したりするといいことはない。
そもそも、「怒り」の原因は何か?なぜ人は怒るのか?我が身が危険にさらされる恐怖、理不尽なことが降りかかってくる不運、社会で正義がおこなわれない不公正、それに、自分が期待するほど評価されないという、承認欲求が満たされない、ことでも「怒り」は吹き出しそうだ。さらには、ストレス解消のために「怒り」たいと潜在的に思っている人も多そうだ。
毎日つまらない、予想しうる範囲のことしか起こらない日常。単調で閉塞感満載の毎日、そんなモノトーンの日々に生じるストレス、仕事や家庭生活での我慢、忍従が生み出すストレス。そんなストレスが、「怒り」による爆発の解放感、「怒り」で他の個体を攻撃する爽快感に変容を遂げる。そんなことを期待して「怒り」の発揮のタイミングを探し求めている個体が多いのではなかろうか。
また、同時に、多くのホモ・サピエンスの個体が、本来は推奨されない「怒る」をするにあたって、これを許してくれる「違法性阻却事由」を探しているように見える。怒りたいが、怒るという感情は誉められたもんじゃないから、怒っても許される条件を、怒りたい人々が、虎視眈々と探している。そんな環境が、社会のあちこちで怒っているような気がしてならない。「怒り」には、私憤と公憤がある。私憤は発揮しにくく、公憤は発揮しやすい。だから「怒り」の「違法性阻却事由」も、社会のための怒りという衣を纏えれば完璧である。「自分のために、怒っているのではない!社会のため、正義のため、他人のために怒っているのである」こう言えれば最高だ。心置きなく「怒る」という彼岸に到達できるであろう。ミスをしようもんなら、誤りを犯してしまおうもんなら、知らない人も、関係ない人まで、よってたかって「怒り」責め立てる。こんな風潮には、満たされない日常からの解放を「怒り」に込めた悲しい人々の存在があるのかもしれない。
さらに、言えば、「怒る」にあたって、「鬼の首を取」りに行き、「溜飲を下げる」ことを嗜好する傾向も年々強くなっているように感じられる。毎日虎視眈々と機会をうかがい、やっと手に入れた「怒る」権利。これを行使するには最大限の効用を手に入れたい。行使している高揚感と快感を最大限に感じたい。そんなところから「鬼の首を取り」また「溜飲を下げる」ことを希求しているのであろう。
なんとかという、銀行員を主人公にしたテレビドラマがあった。僕はこれをテレビ番組としては見てこなかった。しかし、ザッカーバーグ氏の張り巡らした蜘蛛の巣の効果で、断片的に、時間をかけて、そして多分最終的にはほとんどを見ることになった。
このドラマ、まさに、「怒り」「怒る口実を探し」「鬼の首を取りに行き」「溜飲を下げる」に因って構成されていた。そして「土下座させる」というスパイスまで利かせている。そんなドラマが稀に見る高視聴率を叩き出し、流行語や、社会現象まで生み出した。いかに、善良な市民たちが、「怒り」にうえ、「溜飲を下げる」機会を待ち望んでいるかを明示してはいまいか?
権力者が力を誇示するために「怒る」というのは、またちょっと性格を異にする。「俺を誰だと思っているんだ!」とか、「思い知らせてやる」とかいう言葉が吐かれる。これは、単に、「私は小さな人間です。ちっぽけすぎて、どうでもいいところで自己顕示を発揮しています。そのための怒りです」ということなので、分別して捨て去っていいと思う。考察の対象にすらならないので割愛する。
「怒る」についてつらつら考えるとき、必ず行き着くのが、果たして、「怒る」は、さらには「鬼の首を取る」「溜飲を下げる」は、幸せをもたらすのだろうか?という疑問である。今までのつぶやきと同じように、なんの根拠もない、思いつきの仮説ではあるが、「きっと幸せはもたらさない。」「不幸せになる確率は上がる。」と思う。「怒る」ことによって起こる体内の生理学的反応、「怒り」を表すことによって生じる社会関係、直感的にだが、どんな幸せにもつながらなさそうである。「鬼の首を取る」「溜飲を下げる」に至っては、将来に禍根の実をたわわに実らせる果樹園にしか見えない。やられた方の恨みは根深くなり、長く生き残る可能性もある。なので、やめておいた方がいい。やめておいた方が得でもあるし、しかも、多分、美しい。「怒る」「怒っていい口実を探す」「鬼の首を取る」「溜飲を下げる」はしない。4つの「ない」でも「しない」。シナイだけに四戒。相手が、ひどいやつだろうが、極悪の犯罪者だろうが、個人の怒りの対象にすることは良くない。罪には法定の罰が与えられる、で終了とした方がいい。と思う。
ここまでの文章は、「現代のホモ・サピエンスの個体の多くは『怒り』すぎなのではないか。あるいは、『怒り』のきっかけを(無意識のうちに、それでも十分虎視眈々と)狙い探しているのではないか」という僕の感覚が出発点になっている。あくまで、個人の感想である。なので、世の中に、実は、「怒り」なんて感情は、あまり起こっておらず、僕の感覚が間違っていたら、そもそも成り立たない話である。その可能性は十分ある。その場合に備えて、とりあえず、お詫びしておきます。「ごめんなさい」(とはいえ、「怒る」「怒り」の意味を考えることはとても興味深いテーマだと思う。近いうちに、ちゃんと考えて、考えをまとめたいと思っている。)
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細谷辰之(公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員)
◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
◆唐茄子屋雑談」【2022.8.2掲載】
◆Auf Flügeln des Gesanges【2022.4.12掲載】
◆「見たんか?」【2021.12.21掲載】
☞それ以前のコラムはこちらから