入院雑記
片桐由喜 (小樽商科大学商学部 教授)
先日、転倒して膝の皿を割り、入院・手術となった。盲腸の手術のために入院した6歳の時から、半世紀ぶり(!)のことである。わずか1週間の病棟生活で考えたことの一部を、転んでもタダでは起きない精神で綴りたい。
見舞客途絶
周知のとおり、コロナ禍の現下、病棟に見舞客は入ることができない。これに対して、入院患者が家族らと会えない寂しさがいわれ、とりわけ、高齢入院患者の場合は人的交流の少なさから生じる認知機能の低下が指摘されてきた。
しかしながら、私に限って言えば見舞客が来ないというのはありがたい。そして、病院側にとっても見舞客は来ない方が来るよりもよいと受け止めていると(勝手に)思う。
まず、患者視点からの理由は第一に誰とも会いたくないからである。入院中は1日中、パジャマですごし、身支度といえば洗面と歯磨きがせいぜいである。こんな格好では、だれとも会いたくないと思うのが女心・男心(ジェンダーフリーの昨今なので・・・・・)ではないか。
第二に、静謐な時間を邪魔されたくないからである。誰も来ないおかげで私は三食・清掃付きの入院生活中、読書に没頭できた。第三に日本の「お見舞い」文化からの解放である。お見舞いに行くときに「いくら、包んでいくか」と田舎の親が話し合っているのをしばしば聞いた。そして、「お見舞い」を受け取った方はお返しを何にするかと頭を悩ませる。どちらにとっても物心両面への負担である。これがないのは本当に楽である。
次に、病院側の視点に立てば、見舞い禁止は病棟・病室の静寂を保つのに効果絶大であろう。また相部屋の場合、静かに休みたい患者にとって、他者の見舞客の声は騒音以外の何物でもないはずである。
コロナ感染対策が緩和されたとしても、今の見舞い制限は維持してほしいと思うのは私だけではないはずである。
安心の一言
「先生、普通に歩けるようになりますか?」「もちろん、ですよ~(笑)。 術後の経過もいいですよ」、この時の主治医の笑顔に救われ、「先生、この金具って、一生、体内に入れておくのですか」「そうしてもいいけど、とる人も多いですよ」との回答を医師から聞いて、体内に異物を入れ続けなくてもよいのだという安心感を得た。そして、理学療法士から「さあ、今日から車いすは返上」「明日からは歩行器返上」と言われ、回復を実感。これら一連の発言を聞いて、私はどれほど救われたかわからない。
患者は皆、病気とその予後に対する極大級の不安を抱えている。この不安や絶望を払しょくし、未来に対する希望を与えることは医療行為の一環であると、今回、実感した。たとえ、事実であったとしても「病気はもう治りません」などと言われたら、たいていの患者は食欲どころか、生きる意欲を失い極端な選択をすることもありうるだろう。
これが、「病気は完治しないとしても、うまく付き合っていく方法はいくらでもあります。それを一緒に考えるので、また明日から頑張りましょう」だったり、「いまはまだどうなるかわからないけれど、医療の世界は日進月歩。この先、きっといい治療法が出ますよ」と穏やかな表情で言われたら、患者は未来への希望と生きる力を得るであろう。それほどまでに医師をはじめとする医療職の発言とその表情は患者に大きな影響を及ぼす。
言葉の力を自覚させ、習得させることが、もし、医学・看護教育のカリキュラムに組み込まれていないならぜひ、取り入れてほしい。
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片桐由喜(小樽商科大学商学部 教授)
◇◇片桐氏の掲載済コラム◇◇
◆「クールビズvs ビジネスドレスコード」【2022.8.16掲載】
◆「消費行動は投票行動」【2022.5.2掲載】
◆「年賀状と夫婦別姓」【2022.1.18掲載】
◆「高齢店子、お断り」【2021.10.12掲載】
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