大幅賃上げの流れを社会全体へ
金子順一 全国シルバー人材センター事業協会 会長
大幅賃上げへの期待が高まる今次春闘
大幅賃上げへの機運が高まっている。賃上げと言えば、かつては労働組合の十八番であった。しかし今は、政府から要請があるにせよ、産業界でもその必要性を強調する人が多い。春闘の最中、既に大幅賃上げを決めたとする企業も現れた。異例のことである。
経団連は、毎年年初に刊行する「経営労働委員会報告」の中で、春闘に向けた経営側の基本方針を示す。1月に公表された本年の報告書では、「物価上昇を契機に、デフレマインドを払拭し賃金引上げの機運をさらに醸成して、消費を喚起・拡大する」との考えを示した。ベアを含む大幅賃上げに期待が高まるのは当然と言えよう。
私のような昭和世代は、労使の賃金交渉に口は挟まない、これが政府の流儀と心得ていた。知る限り唯一の例外は、50年前、オイルショックに端を発した、いわゆる“狂乱物価”の時である。原油価格の高騰で30%を超える物価上昇が起こり、生活防衛のため大幅賃上げを求める労働界の動きに、政府は、ハイパーインフレの道を断つべく労使に対し冷静な賃上げ交渉を求めたのである。
今春闘に先立って、岸田首相が産業界に対し賃上げ要請を行ったのは周知のとおりである。安倍前政権から引き継がれた措置で、賃上げをデフレ脱却の切り札とし、消費拡大を通じマクロ経済の好転につなげるのが、その狙いである。今回の要請では、世界的なインフレ進行を好機と捉え、物価上昇分を上回る賃上げを実現し、経済の好循環と経済構造改革につなげることが想定される。
現勤労世代が経験したことがないほどの物価上昇。生活に身近な商品の多くが値上がりし、1月の消費者物価上昇率は4.2%を記録した。確かに相当程度の賃上げがなければ勤労世帯は生活防衛ができない。政府、経済界の思惑は別にして、賃上げを勧奨、容認するのは大変歓迎すべきことである。
春闘での経営側の回答を間近に控え、主要大手企業でベアを含めどの程度の賃上げとなるか、まずこの点に注目したい。ただ、大手企業でも経営状況はまちまちで、支払い能力にも差がある。産業、業種での違いも大きい。横並びを脱し、払えるところにはしっかり賃上げしてもらう。かつて見られたように、他企業、他業種への相場波及を懸念し、賃上げ率を抑えるような行動は慎まなければならない。
賃上げのメリットを社会全体に均霑させる
しかしより大事なのは、大手を中心にした春闘での賃上げの流れを、いかに広く勤労者、国民に波及させるかである。一部が潤うだけではいけない。周知のように、日本における賃金波及のメカニズムは、自動車などの主要企業・産業の賃金引上げが他企業・産業に波及し、その後中小企業へ、そして人事院勧告を通じて公務部門へ、これらの引上げ率等を斟酌し最低賃金額へと波及する。賃金・物価の上昇は1年遅れで年金額に反映される。賃上げのメリットを社会全体に均霑させることが重要だ。
このメカニズムを機能させるためには、よく言われるように価格転嫁が円滑に行われることが大事である。大企業に部品供給を行う中小企業ではコストアップを納入先の売価に転嫁できなければ賃上げは覚束ない。優越的地位濫用の防止対策を強化するなど企業間取引の適正化は、政府及び経済界全体の責務である。
同時にサービス業、小売業等では、労働生産性の向上がなければ賃上げできない中小零細が多い。長年指摘されている構造問題がそこにはあるため、賃上げブームに取り残される企業も少なくないはずだ。折しもの人手不足である。生産性向上のための支援強化とともに、廃業・撤退への対応も考えなければいけない。
中小を含めた民間賃金の動向は、夏場の人事院勧告に反映される。民間賃金に準拠して引上げ勧告が出されることになるが、その内容は公務員だけにとどまらず、公益的団体の賃金水準にも直接影響を与える。また、公的予算における単価設定にも波及する。いま、人手不足が著しい保育職・介護職の賃金については、世間相場以上の措置が必要だ。適切な賃金引上げがなければ、人手不足を加速させるのは必至ではないか。
秋に発効する新最低賃金の行方も気になるところだ。パートなどの賃金は最低賃金の水準に連動するところが大きい。物価上昇を上回る引上げが期待される。その必要性を、政府・労使だけでなく社会全体で共有することが大事である。
前述したとおり、賃金引上げに対応できない企業群は、生産性向上で対応と言っても容易ではない。賃金の魅力が市場で見劣りすれば人材確保が一層難しくなり、最終的には市場からの退出・廃業を余儀なくされる。酷な言い方だが、経済原則に照らせばやむをえないことである。このように大幅賃上げは、低生産性部門からより生産性の高い部門へのシフトという経済構造変革のトリガー(引き金)になることも覚悟しなければならない。円滑な労働移動、リスキリングに関する施策強化が必要とされる所以である。この点での政府の強力な施策を期待したい。
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金子順一(全国シルバー人材センター事業協会会長)
◇◇金子順一氏の掲載済コラム◇◇
◆「“フリーランス”という働き方 何が問題なのか」【2022.9.20掲載】
◆「大幅な引上げが続く最低賃金 丁寧な決定プロセスが必要」【2021.11.9掲載】
◆「老いと向き合う就業のすすめ ~高齢期の働き方改革~」【2021.5.4掲載】
◆「アフターコロナの働き方と労働時間規制」【2020.10.13掲載】