「いただく」の洪水に、つかむ藁を探す
細谷辰之 [日本医師会総合政策研究機構 主席研究員]
「温暖化で」というと、「そんなものはない! いつまで世界を操る陰謀に踊らされているんだ」と叫び出す人もいるので、「温暖化で」とは言わない。最近顕著な海面温度の上昇で、ドカ雪はふる、イグアスの滝のような豪雨が頻回に起こる。数年前までは、南西諸島伝いににじり寄ってくるのが台風の嗜みでもあったが、最近は、いきなり土足で関西、東海、関東南岸に踏み込んでくる。台風が首都圏を直撃すればかなり広範な地域が水害に見舞われると予想されている。多くの地域が水没する。洪水である。なんとかしなければいけない大問題である。(ちなみに、首都圏の人にとって、にじり寄ってきたような台風であったとしても、南西諸島の人たちにすれば、いきなり土足で踏み込んできた、ではある。)
但し今ここで取り上げたい洪水は、どこも水没はしない。水による洪水ではないので、大して大変でもない。なんとかしなくてもいい瑣末な問題だという人も多かろう。
「今日こうして、お話をさせていただく機会をお与えいただいたわけでございますので、今後は皆様からのご意見を伺わせていただき、ご意見を反映させていただきながら、本件を進めさせていただければと考えております」。これは先月の某会合でのAさんの発言の一部分の悪意を持った切り取りである。そうとはいえ、文章にしてたった40字、2行半の中に5回の登場。もちろん「いただく」のことである。「皆様のご意見を十分に反映させながら進めてまいります。」ではいけないか? もうすでに話し始めているんだから、話す機会を「いただいた」ことに言及する必然性は(筆者には)感じられない。それに続く「いただく」も余分である。余分なだけでなく、無責任な感じすらする。ご意見は、伺わせていただかなくても、伺えばいいし、反映させていただく前に、自ら反映させればいい。「本件」は、自ら責任を持って進めていけばいい。それを進めさせていただくというのは責任転嫁の匂いさえプンプンする。
この「いただく」の洪水の水源はどこにあるのだろうか? 全くの私見で、偏見と一般化されていない経験からの浅見で、暴論を吐いてしまうと、水源には、謙譲の心も、他者への敬意もほとんど含まれていない。迎合と保身と、あらゆるハレーションを回避しようとする悲しい習性に満たされている(ように思われる)。卑屈ですらある。考察も、判断も、選択もない。「いただく」の洪水に気がついていない向きは、今度一度意識して観察してみることをお勧めする。きっと、そこそこの人数の人々が、「なるほどな」と感じるに相違ない。感じない人はそういない、はずである。
企業や、団体に「さん」をつける疾患も、同じ水源に感染源がある。この感染症は重症化すると「さん」ではなく「さま」をつけて恥いることをしなくなる。最近では各所で、より重症な「さま」付け感染が、「さん」付け感染に取って代わりつつある。真面目で、なんでも「○○道」にしたがる「この島」の人々はきっと近い将来、フジサンやシチゴサンもフジ様、シチゴ様とするに違いない。
他者に敬意を表するのは悪いことではない、謙譲はヴィクトリア時代のジェントルマンでなくても美徳であろう。異論はない。保身も決して悪いことではない。これにも異論はない。生きていく上で必要な知恵が生み出した賜物といいうる。ただこれも程度の問題、卑屈まで至れば誰も幸せにはしないし、傲慢と勘違いという厄介な副産物を垂れ流すのではないかと思えてしまう。卑屈になった人間が他者に卑屈を求める悪循環も容易に想像できる。
卑屈と傲慢の悪循環は、経済活動の中にも散見できる。サーヴィスや商品を提供する側が卑屈、受け手が傲慢の構図である。特に威丈高になる人だけでなく、何となくサイレントマジョリティーな類の人々、善良で良識あるふうの市民の中にも、「金を払っている」特権階級としての意識が「普通に」観察できる。ランチにオムライスを注文しようが、お値段以上の家具を提供する家具屋で買い物しようが、設定された価格を支払っている以上、買う側、提供される側と、売る側、提供する側の関係は対等なはずである。対等な経済行為のはずである。なのになぜか金を払う側が偉そうになる。おかしな話である。貨幣経済の仕組みの中で生まれ育ったせいで、世の中の費用対効果の測定の基準が金に集約されているせいか、とにかく「金」が価値として優先される。そんな現代のホモサピエンスであっても、サービスや商品を買う行為、売る行為が対等な経済活動上の行為だということに異論はあるまい。
そうは言っても時に自分もお客様意識が芽生えることがある。そんな時には「お客様は神様です」の流行語を思い出すことにしている。自分が神様であることはないのでお客様意識はすーっと消えてしまう。
話を元に戻す。これを読んでいる人に「いただきますカウントゲーム」を推奨したい。誰でも、多分どこでもできる。ビジネストークや挨拶のスピーチで特に盛り上がる。目の前で喋っている人の「いただきます」をカウントするゲームである。「いただく」「いただき」ももちろんカウントする。長期間やれば、単位時間あたりの「いただき」回数の地域間、年齢層などの比較で面白い論文が書けるかもしれない。ぜひ、やっていただきたい。
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細谷辰之(公益財団法人福岡県メディカルセンター 主席研究員)
◇◇細谷辰之氏の掲載済コラム◇◇
◆「怒っているは起こっているかということについてぶつぶつ呟いた結果」【2022.11.9掲載】
◆唐茄子屋雑談」【2022.8.2掲載】
◆Auf Flügeln des Gesanges【2022.4.12掲載】
◆「見たんか?」【2021.12.21掲載】
☞それ以前のコラムはこちらから