解体祭
林憲吾 (東京大学生産技術研究所 准教授)
3月25日、26日に解体祭というイベントをおこなう(※1)。
ジビエではなく、建築の解体である。
建築の解体業者である株式会社都市テクノさんや武蔵野美術大学の若杉浩一先生らと共同で開催するこのイベントは、大袈裟に言えば、解体をひとつの文化にまで押し上げたい、そんな意気込みから生まれた。
東京新橋のDaiwa御成門ビルの解体に伴い、その最後に、大人も子どもも参加できる、解体される建物ならではのおもてなしはできないだろうか。そう考えたこの企画は大きく二つのパートからなる。
ひとつは、解体される建物ならではの使い方をすること。解体されると決まった途端、生まれる価値はいくつもある。たとえば、原状復帰の概念がなくなることだ。
通例テナントビルでは大胆に手を加えることはしづらい。だが、元に戻さなくてもよいとなれば話は別。やや実験的な使い方もできるし、ほどなく壊されるとなれば失敗もできる。
まずは、プレーンで無垢な壁を巨大なキャンバスに読み替えてみてはどうだろう。解体されるビルほど自由で大きなキャンバスはないだろう。美大生とともに市民とペイントを楽しむ機会をつくる。
もうひとつは、解体される建物の瓦礫を思い出に変えること。解体とは建物を瓦礫にすることである。その時点で建物は消滅し、思い出だけになった、としばしば言われる。だが、瓦礫は思い出のよすがにならないのだろうか。瓦礫が資源になるなら話は別だろう。
私の同僚に酒井雄也先生がいる。酒井さんは、コンクリートの瓦礫や最近は廃棄食材などからコンクリートに匹敵する強度の建材を再生することに取り組んでおり、まさにゴミを建材に変える錬金術師である(※2)。この技術では、解体で建物はなくなってしまったと言っていられなくなる。前の建物は建材となり、次の建物に引き継ぐこともできるようになるだろう。
私自身、ある建物の保存再生のためにこの技術を使ってコンクリートブロックづくりに酒井さんや学生と取り組んでいる。瓦礫を粉々にしてブロックをつくるプロセスはお菓子作りのようでもあり、なかなか愛着がわく。まだ発展途上の技術ではあるが、このプロセスの小さな体験の場をつくる。
はじまりの解体
冒頭で私は、今回のイベントを建物の「最後に」と表現したが、実は解体は最後ではなくはじまりである。ほとんどの場合、スクラップがなければビルドはないからだ。
この建物が壊された先に、次の建物がある。そうした解体と創造の連続的な感覚を養っていくことが大切ではないだろうか。建物の姿は変わるけれど、記憶の上でも物質的にも前の建物が次の建物の一部になるようなことが生まれるだろう。それもまた一種のストックの活用である。
だが、往々にして解体は嫌われ者である。周辺住民にとっては粉塵や騒音の厄介者である。保存運動の渦中にあった建物では文化の破壊者と言われ、環境時代に突入して、大量の廃棄物を出す解体はますます肩身が狭い。だから早くそっと終わってほしい。新築する人にとっては、解体は余計なコストである。リノベーションでもない限り、誰かが更地にしてくれた土地をありがたいと思う。日本はスクラップ&ビルドの社会といわれるが、スクラップとビルドは乖離している。解体を創造の肥やしにはしない。
既存の建物をただ保存し続けることだけがストック型社会ではない。「既存の建物を、あなたはどう引き継ぐのか」それが耳の痛い問いではなく、日常の問いになる社会ではないか。それには残し方が多様でなければならない。「壊しているけど残す」という手段がもっと豊かになればなるほど、どんな人もその問いを脇に置いておけなくなるだろう。保存か解体かではなく、どう解体するかに、その人にとっての引き継ぎ方が表現されるからだ。
それには解体の見方を変えていかなければならない。保存と解体は水と油ではない。解体だけど保存。そんな残し方の大喜利のような議論が進むと、案外普通の建物保存ももっと進むのではないかと思っている。
[脚注]
※1 「Daiwa御成門ビル解体祭 ~アートとテクノで、最後のおもてなし~」
※2 持続可能な「錬金術」[UTokyo-IIS Bulletin Vol. 8](東京大学生産技術研究所)
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林 憲吾 (東京大学生産技術研究所 准教授)
◇◇林憲吾氏の掲載済コラム◇◇
◆「長屋門3.0」【2022.11.15掲載】
◆「庭木の循環的利用-おうち林業その2ー」【2022.7.12掲載】
◆「都市林業の効用」【2022.3.22掲載】
◆「仏教から考える都市」【2021.9.28掲載】
☞それ以前のコラムはこちらからご覧ください。