Withコロナ時代に響くオーケストラの音色
清宮美稚子 (編集者・『世界』元編集長)
2020年8月28日、ベルリンのフィルハーモニー。ここは世界最高峰のオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地である。無観客公演などは始めていたベルリン・フィルであるが、この日は長らく続いた臨時休館を経て、観客を入れてのシーズン再開初日だった。メイン・プログラムはブラームスの交響曲第4番。
ステージ上も「密」にならないように奏者間の距離をとり、弦も奏者一人に譜面台一台。知人の在独ジャーナリストによると、音がやや外に拡散していくように聴こえたそうで、再開を喜びながらも、濃密なオーケストラの響きを堪能するには至らなかったのかもしれない。客席はキャパ2440のうち450席のみの販売、9月からは663席に増えるそうだ。
日本でも、新型コロナ感染拡大に伴う2月下旬の安倍首相によるイベント自粛要請以後、クラシックのコンサート、音楽祭などはどこも中止あるいは延期を余儀なくされた。それが数か月続き、プロのオーケストラが少しずつ有観客での公演活動を再開したのが6月末である。9月からは公演回数も増えるようでファンにはありがたいが、それでも、観客席は一席おきがもっとも「密」な方法だ。
筆者は、イベント自粛要請後、3回コンサートに足を運んだ。3月19日東京オペラシティ・コンサートホールでの世界的ピアニスト、アンドラ―シュ・シフの来日リサイタルは、すでに大方のコンサートが中止に追い込まれた中での敢行だったので、奏者のシフ氏(ハンガリー出身)も、主催者も、万が一にも問題が起きないよう細心の注意と万全の準備で臨んだことがうかがわれた。客席はほぼ満席に近かった。困難な情況下で日本の音楽ファンにすばらしいピアノを聴かせてくれたシフ氏には感謝しかない。
4月に開催のはずだったバッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ受難曲」は8月3日に延期がアナウンスされていた。公演日の3週間ほど前、チケットセンターからメールで連絡があった。観客席の「密」を避けるために、複数の公演実施ガイドラインなどに則り、1公演の客席を800に制限した新しい座席配置に振り替えて1日に2公演を行うという内容だった。7月末には新しい座席番号が振られたハガキが送られてきた。合唱と独唱を伴う楽曲であるが、出演者の数も抑えてステージの「密」を防ぐという。来日不能になった外国人ソリストの代役の確保もある。コンサート開催にこぎつけるためには、演奏家たちの努力・工夫だけでなく、事務方の文字どおり途方もない量の準備作業があったはずだ。あらゆる努力を惜しまないという執念のようなものを感じたが、その気迫が演奏にも乗り移っているかのようだった。
8月22日には、サントリーホールで「読売日本交響楽団サマーフェス2020」を鑑賞した。ステージ上の配置は普通のように見受けられたが、観客席はやはり一席おきの着席だった。ピアニスト辻井伸行氏の人気ゆえか「満席」で、客席はきれいに市松模様を描いていた。
この春から夏にかけて、その他チケットを確保したいくつかの公演は、少数の延期を除き、中止に追い込まれていた。もちろん手続きすれば払い戻しがされる。ただ、私は「あ、コンサートないのね、じゃあ払い戻してもらおうっと」という気持ちになかなかなれなかった。手取り◎◎円の薄給の嘱託の身である。しかし、こんな割安でこのアーティストが聴けるのか、という地方での公演などの中には、そのまま払い戻しせずに来てしまったものもある。再現芸術は、生演奏が命である。そのために膨大な人的・時間的・金銭的な資源がつぎ込まれ、一回のコンサートに凝縮される。8月のバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会でそのことをあらためて実感した。対価に見合ったサービスがなされなければ当然払い戻される、という感覚とは少し違う気がするのだ。文化とその担い手に対する想像力というのだろうか。もちろん、コンサートに足を運ぶからには、感染しない・させないための観客としての責任を念頭に置いて行動したつもりである。ちなみに、3公演ともそれが感染のクラスターになったという話は聞かない。
音楽や演劇の分野でも、コロナ禍によるイベント中止要請以降の苦しい運営状況が伝えられた。日本全国の小劇場や映画館やライブハウスなどが閉館の危機にさらされた。とくにフリーのアーティストの苦境はいかばかりかと思う。
日本とよく比較されるドイツでは、芸術家や文化機関はコロナ禍の当初から、フリーランサーや小規模事業者のために連邦政府がまとめた緊急支援対策の対象となっていた。数十億ユーロ規模の生活支援対策で、クリエイティブ分野で働くフリーランサーたちとその家族の生活が保障された。事業費用、なかでも家賃は緊急援助によって賄われた。ギャラの取り消しによる遺失利益に補償金を支払って生活を保障する施策もとられた。その他、特に民間のオーケストラや映画館を対象にした支援策もあるそうだ(ドイツ首相府国務大臣兼連邦政府文化・メディア大臣モニカ・グリュッタース「なぜ危機の時に芸術が不可欠であるのか」による)。
なお、イギリス政府も7月、美術館、劇場、コンサートホール、独立系映画館などの文化施設救済のために15.7億ポンド(約2100億円)規模の緊急追加支援を行うと発表している。
日本では文化に対する支援策は薄かった。オーケストラなどでは無観客演奏とその配信をはじめ、いろいろな模索が始まった。特に、演奏活動再開のために必須として、いくつもの演奏団体やホールによって、飛沫の実証実験などを重ねての公演実施ガイドラインが作成された。よく知られているものに、兵庫県立芸術文化センター作成の「兵庫県立芸術文化センター心の広場プロジェクト どんな時も歌、歌、歌!~佐渡裕のオペラで会いましょう 事業概要と新型コロナウイルス感染対策 報告書(2020年8月7日初版)」がある。この中の「感染対策の自己評価」の項目に、以下のような印象的な総括があるので紹介したい。
「今後、仮に感染者が見つかったとしても、これだけの対策をした上でのことなので、公演が原因とは考えられない。委縮して公演再開を断念するのではなく、十分検証した上で、そのことを強く訴えることが大切。一人の感染によって公演活動がストップしてしまってはならない」
同感である。リスクをゼロにすることはできないが、ウイルスの実態に合った科学的なガイドラインに則り、演奏活動が活性化することを願っている(よく指摘されることだが、厳しい感染管理が必要な病院や介護施設と一般社会とは分けて考えるべきだろう。これは音楽に限らず、すべての分野にあてはまる)。9月中旬に入り、クラシックのコンサートや古典芸能、演劇などで入場人数制限を緩和する方向だと伝えられたが、手放しで喜べる状況ではないだろう。
グリュッタース大臣が言うように、Withコロナ時代にこそ芸術は不可欠だ。担い手たちの模索は続く。それを支えていくことが、社会の基盤を支えることにもつながる。
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清宮美稚子(編集者・『世界』前編集長)
◇◇清宮美稚子氏の掲載済コラム◇◇
◆「気候非常事態」(2019年12月24日掲載)